(3)グループの方向性めぐり長男とはたびたび衝突…殴り合いになることも
振り返ってみると「フィンガー5」のピークは1974年ごろだった。その年の2月に初の沖縄凱旋コンサート。3作目の「学園天国」も100万枚突破した。「個人授業」「恋のダイヤル6700」に続いて作詞はヒットメーカーの阿久悠先生。一度くらいしか会っていないけど、僕らのデモテープを聴いただけで、イメージして歌詞をつくる。それが僕らのやりたい楽曲と一致する。今さらながらすごい作詞家だったと思う。
その年の暮れの日本歌謡大賞では「放送音楽プロデューサー連盟賞」、日本レコード大賞では「ヤングアイドル賞」を受賞。周囲の見る目も変わった。テレビ局に行けばスタッフが丁重なお出迎え。誕生日にはファンからたくさんのプレゼントが届いた。サングラスをかけた“ませた子供”のイメージが定着していた僕には香水や指輪などのプレゼントもあった。素顔は仮面ライダー好きの少年だったんだけどね(笑)。
しかし、華やかな表舞台と対照的に舞台裏ではさまざまな事が起きていた。右も左もわからない芸能界で最初にお世話になったのが沖縄出身のレジェンド・歌手の仲宗根美樹さんの事務所。同じ沖縄というだけの縁で仲宗根さんのステージでバックコーラスをしたこともあった。その後はレコード会社を主体に父親と長男がマネジメントしていたけど、さまざまな人がうごめいていた。父親がよく言っていた「芸能界で稼いだ金はあぶく銭みたいなものだ」の言葉は当たらずとも遠からずだと思う。