芸能界の“ドン”渡辺晋に詰め寄った小柳ルミ子マネジャー(上)"二度の奇跡"はこうして起きた
「社長、この歌をA面にしたら新御三家にも勝てます」
小柳には既に『明日の海』という歌が用意されていた。作曲は昭和48年に『あなた』で『第4回世界歌謡祭』のグランプリを受賞した小坂明子、作詞はキャンディーズの『ハートのエースが出てこない』などでヒットを飛ばしていた竜真知子だった。当時、シングルA面の最終決定は、事務所の創業者で戦後の日本芸能界の礎を築いた渡辺晋社長に委ねられていた。森氏は社長室を訪れ、新曲を変えたいと直談判した。
「部屋に近づくと、他の件で誰かを叱責している声が聞こえたんですよ。間が悪いな……と思ったけど、時間も迫っているし、行くしかない。『社長、この歌をA面にしたら新御三家にも勝てます』と断言しました」
晋社長は「いい歌と売れる歌は違う」と突っぱねたが、森氏は「売れますから」と食い下がった。執念を感じた晋社長はA面の入れ替えを許した。
「タイトルが『八重山哀歌』だと古く感じてしまうから、ディレクターたちと一緒に徹夜して『星の砂』にしました。3年ぶりに50万枚を突破してオリコン最高2位まで行きましたよ。社長には『ありものの歌だからな。ノーマネジメントだ』と言われましたけど(笑い)」
森氏の宣言通り、昭和52年4月発売の『星の砂』は飛ぶ鳥を落とす勢いの野口五郎、郷ひろみ、西城秀樹の新御三家の同時期のシングル売り上げを上回り、年間でも13位に入る大ヒットとなった。
小柳は、発売当時の心境を"イメージのコンクリート漬け"という表現を使って語っている。
〈私のイメージってデビューからとても優等生で日本的で何事にでも全力で一生懸命ぶつかっていくっていう感じで受けとめられていたでしょう。それを拒否もしないし、むしろ私の中にある部分だと思います。でもひとりの女としてもっといろんな面があるわけで、イメージの中でコンクリート漬けにされるのはつらかったですね。その気持ちが爆発してひとつの形になったのが、6、7年前かな。『星の砂』という歌だったんです〉(1983年10月27日号『週刊明星』)
■ナベプロマネジャーの担当期間はどんなに長くても3年
芸能人として脱皮を図りたい時に、恋人と無理矢理引き裂かれた女が男を想う『星の砂』で、小柳は新境地を開いた。気が付けば、森氏は彼女のマネージャーになって3年という月日が過ぎていた。
「渡辺プロでは、同じタレントを担当するのはどんなに長くても3年なんですよ。互いにいろいろな経験を積んだほうがいいし、違う人と組むことで生まれる化学反応があるから交代していく。でも、私はその後もルミ子の担当を代われとは言われなかった」
森氏は手を替え品を替え、小柳の魅力を引き出そうとした。
「『星の砂』は売れたけど、その後は再び低迷しました。ずっとヒット曲を出すなんて無理です。それでも、小柳はあきらめずに挑戦を続けた。そこで私は願掛けで、昭和54年の4月1日から禁煙しました。当時、1日60本ぐらい吸っていたんですが、『ザ・ベストテン』で10位以内に入るまで吸わないとスパッとやめました」
翌年、森氏が新曲の打ち合わせで社長室を訪れると、渡辺晋社長が激昂していたーー。(つづく)
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▽森弘明(もり・ひろあき) 昭和20年2月14日生まれ、東京都出身。開成高校、慶應大学経済学部を経て、昭和44年に渡辺プロダクション入社。平成2年からは制作部長を務め、翌年退社。同期にはサザンオールスターズ、福山雅治、星野源などを抱える芸能事務所『アミューズ』の創業者である大里洋吉氏などがいる。平成22年からは大里氏のオファーで、東京・浅草を拠点に活動していた昭和歌謡レヴュー劇『虎姫一座』の脚本を執筆。65歳で初めて舞台構成を手掛けた。現在は『ラナンシーミュージック』で"歌のシンデレラ"Rili.などをプロデュースしている。
▽取材・文=岡野誠(おかの・まこと) ライター、松木安太郎研究家。著書『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)では芸能史やテレビ史を丹念に考察。本人や関係者への取材、膨大な一次資料、視聴率などを用いて分析した同書は鈴木智彦著『サカナとヤクザ』、山田ルイ53世著『一発屋芸人列伝』などとともに『本の雑誌』2018年ノンフィクション部門ベスト10入り。