100万部超「生協の白石さん」の著者は今…大学生協から日本生協連への“移籍”で変わったこと
白石昌則さん(53歳)
2005年、東京農工大学生協の「ひとことカード」に寄せられた学生からの質問や要望に、ウイットに富んだ回答をし、話題になった“生協の白石さん”。同名書籍も100万部超のベストセラーとなり、話題性はCMやラジオにまで波及した。白石さん、今、どうしているのか。
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白石さんに会ったのは、JR渋谷駅から徒歩3分の日本生活協同組合連合会本部(コーププラザ)3階の会議室。
「3月21日に、渉外広報本部広報部広報グループに配属されました」
白石さん、まずはこう言って名刺を差し出した。聞けば、それまで2年間、関西支所で勤務し、東京へ戻ってきたところなのだという。そもそも、白石さんが勤務していたのは、大学生協だったはず……。
「大学生協は2年前に退職し、日本生協連(日本生活協同組合連合会)へ移籍しました。大学生協と日本生協連は別組織なので、一般の企業でいえば、他社への転職のようなもの。コロナで経営をスリム化することとなった大学生協から転籍希望者が募られた折に手を挙げ、日本生協連に移籍となり、関西支所に配属された、というわけです」
当然、仕事内容も変わった。
「“生協の白石さん”と話題にしていただいたときは、東京農工大学工学部の生協にいました。その後、法政大学生協小金井店や東洋大学生協白山店の店長に。商品を仕入れて、大学生に販売する立場でした。日本生協連に移ると、関西支所では営業職でしたので、日本生協連が開発しているプライベート商品のCO・OP商品を地域生協のコープこうべなどへ営業に行って、卸す仕事に。それまでは大学生、日本生協連に移ってからはさまざまな世代の方々が対象となったので、アプローチの切り替えが必要でしたね」
東京出身の白石さんにとって、大阪は初めての土地。そのうえ、単身赴任だったそうだ。
「妻も仕事をもっていますので単身で行ってきました。サラリーマンなので、そういうものだと淡々と。大阪は街が住みやすく、職場環境も上司やスタッフに恵まれました。ただ、家族がいるので、『可能なら東京へ』と希望を出していたので、東京転勤はおもんぱかっていただいたのだと解釈しています」
大阪暮らしも楽しんだのだろうか。
「コロナだったので、あまり出かけられなかったんです。時間を持て余し、大学時代に弾いていたシンセサイザーを買って、楽しんでいました。転勤に伴い自宅へ持って帰ったら、妻に『邪魔ね』と怒られてしまいました(笑)」
4月に新著「帰ってきた生協の白石さん」(講談社)を上梓。休日に、その原稿の執筆もしていた。
「『生協の白石さん』の読者だった、現在40代前後の方々と、令和の今の大学生から寄せられた質問や悩みに、僭越ながら答えさせていただきました。友人関係や恋愛の悩みは、私たちの世代も今も同じ。違うのは、私たちの世代は、格好をつけて酒やたばこを始めようとしたり、イイ車に乗りたいと思ったりするのがマジョリティーでしたが、令和の学生は多様な価値観を持っていて、大人だなあと感じます。こういう変化は10年ぐらい前からのように感じます」
広報部在籍の現在は、生協の取り組みやコープ商品についてホームページなどでわかりやすく伝えるのが仕事。異動のタイミングで新著出版とは、日本生協連のツイッターの“中の人”として発信を始める予定などがあるのだろうか。
「タイミングが重なったのは、たまたまです。依頼をくださった編集者の意図はわかりませんが、私としては、声をかけていただけるうちが花だと思い、取り組ませていただきました。ツイッターも広報の業務の範囲ですが、私が直接担当するかどうかはわかりません。ツイッターをPRに活用する企業や組織は増えていますよね。ただ、業績につながっているかというと、そうは言い切れない。私も勉強していきたいと思います」