故・名プロデューサー佐藤剛さん 最後のサプライズと、ときに苛烈すぎる人生について
今週の日曜日(25日)、先ごろ71歳で逝去した佐藤剛さんの告別式が営まれた。凄腕の音楽プロデューサーであり、すぐれた作家でもあった。
大腸がんとの闘いは、相互フォローしていたツイッターで知っていた。だがこんなに早い旅立ちになるとは。亡くなった当日に届いた訃報には、葬儀は近親者のみでとあった。だが故人とゆかりの深い田中康夫さんのつよいお声がけに背中を押され、手を合わせに行ったぼくは、出棺のお手伝いまでさせていただいた。大きな波動を感じるひとときだった。これは運命だったといま思う。
剛さん(とこれまで通り呼ばせていただく)の半世紀にわたる音楽人としての足跡は、じつに輝かしいものだ。杜の都の名門・仙台一高時代に映画や文学や音楽に感電。難関の慶應大学法学部に合格しながらも、心酔する川島雄三監督(『幕末太陽傳』)の影響で明治大学文学部演劇学科に進学、川島が所属した映画研究部に入部する。
卒業後は音楽業界誌の営業・編集・執筆を経てシンコー・ミュージックへ。アーティストのマネージメントやプロデュースに開眼すると、シンコーから甲斐バンドと共に独立。29歳で事務所社長となる。甲斐バンド解散後は、新設した会社ファイブ・ディーでプロデュース活動を本格化。ロックバンドTHE BOOMと邂逅し、フロントマン宮沢和史の稀有な才能を覚醒させたり、小野リサやハナレグミといった音楽的かつ個性的なアーティストを世に送り出す。
ファイブ・ディーでは、音楽よりはむしろ小説家や漫画家のエージェント、あるいは写真家、画家、イラストレーターの発掘やマネージメントをやりたかったという。実際、1988年にはマイケル・ジャクソンの自伝『ムーンウォーク』日本語版刊行に関わり、当時面識もなかった作家・田中康夫を邦訳担当に指名した。同書は初版10万部を売り切って増刷も重ねたのだから、剛さんは出版プロデュースの力量も確かだった。