「言いたいことを言う」ために別の柱をつくろうと決意、レストラン「ジュンチャン」を始めた
地下鉄外苑前駅から神宮球場に向かう道、通称、スタジアム通りの左側に都立青山高校がある。僕が通った高校だ。偏差値はかなり高い方だったと思う。1学年300人くらいいたけれど、僕がいたころ、つまり、1970年代は現役で30人くらいが東大に進学した。浪人生も同じくらい東大に合格していて、合わせると70人近くが東大に入った。都立では戸山高校と一、二を争っていたと思う。そこでの3年間、野球部の4番エースとして汗を流した。
先日、久しぶりに青山の同級生で集まった。みんな70歳になったのだ。
この連載の担当者の方から、自分だけ「若作り」で「奇異に感じませんでしたか?」と聞かれた。確かに、「70歳です」と言うと、みんな驚くかもしれない。一方、同級生の中には誰だかわからなくなった人も多かった。でも、「自分だけ違う」みたいな違和感はなかった。例えば、同級生に阿部敦くんがいる。三井物産からドイツ証券などを経て富士通の取締役会議長まで上り詰めた男だ。たまたま仕事で知り合いになったKDDIの共同創業者、千本倖生さんが「阿部さんには本当にお世話になった」と感激していた。千本さんの携帯電話事業を阿部君のファンドが支援したのだ。そのころ、阿部君は米国にいたと思う。海の向こうから刺激的な仕事をした彼はいまも意気揚々としたチャレンジャーだ。そんな仲間がいるからか、我々には70歳になって「ご隠居」という雰囲気はない。古希を迎えた感慨なんかもありゃしない。「あっという間だった」というのが実感で、まだまだ走り続けるつもりである。僕にはやりたいことがたくさんあるのだ。