中村敦夫さんが語り尽くす俳優、作家、政治家…華麗なる遍歴の84歳が語る「悟りが来た」とは?
昭和から令和に至るまで俳優、作家、ニュースキャスター、国会議員など華麗なる遍歴で知られる中村敦夫さん。いずれも新たな分野を切り開いてその道のさきがけをつくってきた。その芯にあるものは何か。
僕が時代劇「木枯し紋次郎」をやる前のことからお話ししましょう。
俳優座に入って1965年にハワイ大に留学し、世界を旅して回り、再び渡米して70年にはカリフォルニア大バークレー校周辺を放浪していました。その頃の日本は全学連から始まって全共闘の時代になるわけだけど、バークレーはヒッピーの本場だったから、僕は仲間入りして、アメリカでベトナム反戦運動をやったわけです。
帰国した71年に俳優座に戻ると、今度は俳優座の権力闘争が起きて、原田芳雄や市原悦子を引き連れて分裂します。僕は由井正雪といわれ、裏切り者呼ばわりされてね。でも、その頃から古い体質の新劇はダメになっていくわけです。
ちょうどその年、大河ドラマ「春の坂道」で石田三成をやって、名前が知られるようになり、翌72年に始まった「木枯し紋次郎」に抜擢され、大当たりします。
その後、僕は映画を作りたくなるんですね。そのために企画を考えたけど、通らなくてガッカリしちゃって、思い立ったのが小説を書くこと。世界情勢に興味があり、海外を舞台にした国際小説を書くわけです。83年の「チェンマイの首」は10万部のベストセラーになり、「ジャカルタの目」、「マニラの鼻」と東南アジア3部作を書きました。
テレビではその頃から情報番組が始まっていました。番組にはキャスターをやる人が必要になるけど、どういう人にやらせるか、まだテレビ局もわかっていなかった時代ですね。僕に白羽の矢が立ちます。僕なら海外を一人旅していて英語は通じるし、現地のことがわかっている、とっさのことでも判断もできる。テレビ局はそう考えたのでしょう。84年から「中村敦夫の地球発22時」のキャスターをやりました。
当時は局が新しいテレビ時代が来たということで、かなりの予算も組みました。お金の心配なしで、何十カ国も取材できた。これは大きな知的財産になりました。