「胎動」と「混迷」が交錯するシンドイ2年間
1984年と1985年の沢田研二
本連載もいよいよ最終コーナーに向かう。
1984年の音楽活動として、シングルは2月に「どん底」、4月「渡り鳥はぐれ鳥」。9月に「AMAPOLA」。アルバムとしては6月に「NON POLICY」を発売。
続く85年は、8月にシングル「灰とダイヤモンド」、そして9月にアルバム「架空のオペラ」。
途中少し間があくのは、渡辺プロダクションから独立し、新たに個人事務所「ココロ」を設立、レコード会社もポリドールから東芝EMIに移籍したからだ。つまりは「シン・沢田研二」になるためのブランクである。
そして本連載で扱うのも「架空のオペラ」まで。非常に騒々しくそして創造性にあふれた、沢田研二オールキャリアの中でももっとも「創造しい」6年間がここに完結する。
しかし、この時点でも、沢田研二のスタンスは基本、変わっていなかったのではないか。「朝日ジャーナル」83年11月25日号のインタビューから。
──<だから、ぼくにとってのライバルは、やっぱりマッチでありトシちゃんですね>。