高橋伴明さん 中2の秋に親の目を盗んで観た成人映画の衝撃
第1志望の関西の国立大医学部に落ち、滑り込んだのが早稲田の二文。高2の春に49歳で死んだ父が「早稲田に行きたかった」と口にしていたんです。そこで高校の先輩に誘われ入った映研が学生運動のセクト(新左翼)の拠点で、青っぽい正義感から学園闘争の最前線へ。機動隊は捕まえてから殴るんです。やつら、催涙弾を水平に狙って撃つようになり、立ち向かったものの、逮捕。小菅は満員ということで、府中刑務所行きとなり、未決ながら独房に半年間ぶち込まれました。
大学は一度も講義を聞くこともなく除籍、抹籍に。中退にもならず、学歴は高卒で世の中にはじき出されたのです。
東京ではじめて転がり込んだ荻窪の4畳半アパートは苦学生ら6人暮らしで皆、金がない。中に日本獣医の学生がいて、牛を解剖したあとの肉をバケツで持ち帰ってきて、それを焼いて皆で頬張ったりしていた。
■撮影現場のアルバイトから22歳で監督に
時代劇の撮影現場のアルバイトをしたのが、映画の仕事のはじまりです。やがて、ピンク映画に呼ばれる。ものすごいタテ社会で、待遇はさながら丁稚奉公でした。それで先輩が次々に辞めて助監督に。そのときについた監督の家が幼稚園を経営していて、そこの児童の面倒まで、本当に奴隷のようにこき使われた。絶対に使う側になってやると拳を握り、22歳のときに監督になりました。思い描いた人生とかけ離れていくのは分かってはいたけれど、西荻で一人暮らしをはじめたときも、キャベツ一玉を千切りにして、塩をかけて一日をしのぐといったありさまで、立ち止まったりする余裕はなかった。