“ピス健”が現れると道がサッと開く「一緒にいる俺までが偉くなったみたいで…」
野口修と山口洋子の関係について、関係者に取材をして多くの人が口を揃えて言うのは、「野口さんは権力を誇示したがるところがあった。洋子ママはああ見えて強い男の人が好き。だから野口さんに引かれたというのはあると思う」というものだった。
口さがない人は「それは洋子ママの気を引くためにそうしていた」と言うが、はたしてそうだろうか。そんな短絡的な問題なのか。そこで気になったのが、筆者が野口修自身から直接聞いた少年時代の原体験である。
敗戦後、上海で興行会社を営んでいた野口家が日本に帰国すると、焼け野原となった東京にはすぐには戻らず、西日本を中心に転々としている。高槻に次いで半年間も滞在したのが神戸の嘉納健治邸だった。
嘉納健治とは、父野口進がかつて所属した大日本拳闘会の会長である。渡辺勇次郎、田辺宗英と並んで黎明期のボクシングの創始者の一人に数えられるが、それだけの文脈で語れる人物ではない。日本酒の老舗大手の菊正宗酒造や白鶴酒造の創業家にして、名門進学校灘中学校(現私立灘中・高等学校)を創設した神戸指折りの名家嘉納財閥、その嫡流につらなる御曹司である。また、講道館柔道の創始者、嘉納治五郎は分家の叔父にあたる。