“ピス健”が現れると道がサッと開く「一緒にいる俺までが偉くなったみたいで…」
そんなエスタブリッシュメントにつらなる存在ながら、射撃の名手「ピス健」の異名を取るなどアウトローの道を進んだ嘉納健治だが、その一方では、柔道と拳闘(ボクシング)の他流試合「柔拳興行」を興し、これが大ヒット。一気に大物興行師となる。
当時の神戸には最大の歓楽街・新開地に「聚楽館」という大きな建物があった。1913年に落成された鉄筋3階建て、地下1階の西洋建築の大劇場である。7代目松本幸四郎の歌舞伎公演と、松井須磨子主演、トルストイ作「復活」をこけら落としに据え、以降も「西の帝劇」にふさわしく、和洋織り交ぜた豪華なラインアップを上演している。ここで催される興行権を握っていたのが嘉納健治だった。
さらに嘉納は浅草オペラの大スター・高木徳子の後見人として劇場公演や巡業の一切を取り仕切り、興行界の顔役ともなっている。また、喜劇役者の古川ロッパの当時の日記には「神戸の有名な親分。小男だが面白い奴」と日常の嘉納についての記述もある。
戦後の一時期、嘉納は自宅に居候していた野口修を賭場や劇場に連れ回し、いたく可愛がっていたという。生前の野口修の回想がある。