五木ひろしの光と影<7>全日本歌謡選手権はうるさ型の審査員が切って捨てるのが売りだった
視聴者参加番組の歴史は古い。現在も続く「NHKのど自慢」が始まったのは戦後すぐの1946年(当時の番組タイトルは「素人のど自慢」)。9歳児だった美空ひばりが「子供らしくない」という理由で鐘が1つしか鳴らなかったのは有名な話だが、1948年出場の若原一郎、1953年出場の坂上二郎に至っては見事優勝し、芸能界入りのきっかけを掴んでいる。その後も視聴者参加番組は途絶えることはなく、トーク番組やバラエティー番組、クイズ番組に至っては、70年代から80年代にかけて大半が視聴者参加によるものだったと筆者は記憶する。
中堅作曲家だった平尾昌晃に審査員としてオファーが来た「全日本歌謡選手権」も「10週勝ち抜けば歌手デビュー」をうたった典型的な視聴者参加番組だった。ただし通常のそれと異なるのは、プロ歌手にも門戸を開いていた点である。プロ歌手が10週勝ち抜いた場合も再デビューの権利が与えられることになるが、もし敗れたら「素人に負けた」という汚名は拭えず、おそらく二度と芸能界の敷居をまたぐことは許されなかったはずだ。
逆に“勝ち逃げ”をするプロも大勢いた。番組に出演することで顔を売ろうとしたのである。その最たる例が「かぐや姫」である。1973年に「神田川」がミリオンヒットとなり、フォークブームの代表的存在となる彼らだが、「南高節とかぐや姫」時代の1970年に出場し、審査員の淡谷のり子に音程を外したことを厳しくとがめられるなど悪戦苦闘しながらも4週勝ち抜き。5週目は出場を辞退している。南こうせつ自身「少しでも顔を売るために出た」と後年になって述懐している。「全日本歌謡選手権」とは、とどのつまり、「リアリティーショー」のはしりと言うべき番組だったかもしれない。