五木ひろしの光と影<19>1971年3月、野口プロ芸能部・第1号歌手「五木ひろし」が誕生した
ただし、芸能界に参入したことで野口プロの性格は著しく変質した。メインはあくまでも、沢村忠を擁するキックボクシングの興行と、会員500人からなるジム経営、高視聴率を叩き出していたテレビのキックボクシング中継の放映料だったが、野口修の関心は芸能に移った。
芸能部第1号歌手である五木ひろしが、1971年3月1日リリース「よこはま・たそがれ」で再デビューをはたすと、手始めに野口修は「野口音楽出版」なる版権会社を設立した。これを機に音楽版権ビジネスにも乗り出すことを決めたのだ。野口修はこの一曲のために5000万円(※現在の価値で約2億円)を投じた。また「姫」で時折顔を合わす程度の付き合いだった平尾昌晃も、これ以後は野口修と頻繁に関わるようになった。
「野口さんとよく会うようになったのはこのときから。最初は(山口)洋子ちゃんも交えてだったけど、野口さんと2人だけで打ち合わせをする機会も増えた。個人的なことを言うと、僕は弟さんの野口恭さん(元日本フライ級王者)のファンだったから、『本物の野口恭がいる』って興奮したもんだよ。会社に行くと野口家のお母さんが仕切っていて『あんたは腰が悪いから、この薬がいい』なんて、効くのか効かないのかわからないような漢方薬をいつも渡されてさ(笑い)」(平尾昌晃)