ロックギタリスト山本恭司さんの“もう一つの顔”…高校の同級生・佐野史郎と「小泉八雲朗読会」でジョイント
■高校の階段の踊り場で2人が誓い合ったこと
3年の時に初めて同じクラスに。松江南高が進学校だったせいもあるけど、ボクも佐野も進路が専門学校ということで、校内では落ちこぼれとみなされていました。
でも、2人には明確に「なりたいもの」がありました。ボクは公務員の父に猛烈に反対されながら「音楽系の専門学校に行って必ずプロのギタリストになる」という夢があった。医者の息子だった佐野には「美学校に通いながら俳優になる」というはっきりとした目的意識がありました。
卒業が近づき、階段の踊り場で「俺はギタリストになる!」「俺は俳優になる!」と2人して青春ドラマみたいに言い合ったものです。
たとえば東京の大学に進学し、軽音楽部に入ってギターの腕を磨くというのが一般的かも知れません。でも、ボクは「ギターを弾けば弾くほど褒められる環境」に身を置きたくて、大学という選択肢はありませんでした。
島根県庁の職員だった父には反抗ばかり。よくケンカもしました。でも感謝もしています。志望先のネム音楽院(設立時の名称=83年にヤマハ音楽院と改称)のあった三重県まで行って、校長から丁寧に話を聞いてくれたこともありました。最終的には、父が「ちゃんとした学校というのは分かった」と許してくれました。「コイツは家出でもしかねない」と恐れたかも知れませんが。
父は95歳まで長生きしてくれました。ネム音楽院に行きたいと言い始めた頃に「オマエはギターの世界で日本一になる自信はあるのか?」と聞かれて「絶対にある!」と答えました。
BOWWOWでプロデビューして3年目くらいに音楽雑誌「ミュージック・ライフ」のギタリスト人気投票で1位になって落とし前を付けたというか、どうにか約束を果たせました。それからもずっと応援してくれました。親孝行ができて良かったと思っています。