サザン桑田が涙を流して「RCに負けた」と語った札幌の夜
1980年代初頭は、エレキ編成に変わったRCサクセションにとって大きく花ひらいた時期である。
当時のライブ本数は年間90本を数え、全国を目まぐるしく飛び回っていた。
「79年から80年にかけての不遇の時代から目の前が一気に開けた感じです。ライブが口コミでうわさになり、TV出演や雑誌の露出も目立ってきました。清志郎さんはその頃はまだ銭湯通いで、汗だくでステージを終えて、銭湯の閉まる時間を気にしてたという話があります。番台のおばさんに『あんた、最近テレビに出てる化粧した男の子に似てるね』って声をかけられたという(笑い)」
当時から、清志郎は自らをミュージシャンとは呼ばず、常に“バンドマン”と言っていた。
「バンドマンという言葉には、『アーティスト』とか『ミュージシャン』という呼び方よりも、もっと当時の、昭和というか、その時代の演奏者が好んで使っていた雰囲気がありますよね。あと、メンバー全員でひとつの“バンド”であって、自分はその一員ということも含まれているのかな。清志郎さんはバンドが大好きでしたから」