女優・銀粉蝶さん「テレビに出たのは娘が生まれたため」
個性派女優としてテレビ、映画、舞台に活躍中の銀粉蝶さん。1980~90年代に劇団「ブリキの自発団」の看板女優として活躍。「最後のアングラ女優」の異名を持つ。その時の写真がこれだ。
私が大学(短大)進学のため上京したのは70年安保の直前で、学生運動が燃え尽きる寸前の最後のきらめきともいえる時代でした。東京にとてつもないエネルギーを感じたのを今も覚えています。なんか自分の行動で世界を変えられるかもしれない、みたいな。
私も手当たり次第にいろんなことにチャレンジしました。ジャズバンドに現代美術に、もちろんデモにも行ったけど、そんななかのひとつに演劇があったんです。
それで、卒業間際に佐藤信さんや串田和美さんたちのつくった「自由劇場」の研究生の試験を受けました。
結果発表の日のことは今も忘れません。私は霞が関ビルにある会社の入社式で新入社員を代表して挨拶までして。ところが、昼休みに会社を抜け出し六本木の劇団事務所に試験結果を見に行ったら合格してた。すぐに会社に電話して「辞めます」って(笑い)。
自由劇場では観世栄夫さんや斎藤憐さんが研究生に稽古をつけてくれましたが、なかなか公演には出られない。
実をいうと私はそのとき早稲田の学生劇団にも参加していて、そこで今の夫(生田萬)と出会い、新しい劇団をつくろうという話が持ち上がって、早い話、二股状態になっていたんです。でも、私は迷うことなく自由劇場を辞め、生田たち仲間と「魔呵魔呵」という劇団を結成しました。
■演劇の現場には“すべて”が詰まっている
方法もスタイルもなにもない無手勝流の私たちの劇団にとって最初の事件は、寺山修司さんに気に入られて、天井桟敷初の市街劇「人力飛行機ソロモン」(70年)に参加したこと。新宿の街を襦袢姿で練り歩いて通行人を脅したり(笑い)。とにかくなんでもやってみたくて、舞踏にはまったこともあります。
暗黒舞踏の創始者だった土方巽さんの愛弟子の芦川羊子さんには圧倒されました。新宿の小劇場に通いつめて出待ちした揚げ句、「私も暗黒舞踏やりたいんです」と直訴したけど、「まだ若いんだからもう一度考え直してから来なさい」とあっさり断られて。勢いだけだったから、すぐにくじけちゃいました(笑い)。
80年代初頭に生田と結成した「ブリキの自発団」は、下北沢を中心としたいわゆる小劇場ブームを牽引し、90年代終わりに活動休止しました。
目移りの激しかった私が20年近くも劇団を続けられたのは、演劇の現場にはすべてがあるからです。あらゆる芸術の要素があるし、劇団という小さな共同体は人間社会の問題を鏡のように映し出す。そこが面白かったんですね。
旗揚げ作品「ユービック いとしの半生命体」は私の大好きな作家、フィリップ・K・ディックの小説がモチーフ。ディックの作品に一貫した、虚構と現実を往還しながら最終的に現実をなし崩しにしてしまうような構造は、ある意味、演劇と通じるところがあると思うんです。虚構を演じる自分を現実の自分が俯瞰するような、そんな「メタ構造」が芝居の面白さじゃないでしょうか。
もちろん、芝居だけでは生活できませんから、義母がやっていた渋谷のスナックを手伝ったり、劇団員全員アルバイトは当たり前でした。
本格的にマスコミの仕事を始めたのは、娘が生まれてからですね。きっかけは、風間杜夫さんを育てた現代制作舎の豊田紀雄社長が、私と木場勝己さん、大杉漣さんの3人で新しい事務所をつくってくれたこと。でも、豊田さんは大好きな俳優たちにヘタな仕事をさせたくなくて、だから全然仕事がない。私は娘のためにどんなことでもしようと、マネジャーがつくった別の事務所に入りました。