日本語の勉強のため「水戸黄門」やニュース番組を見ていた
♪たかが人生 なりゆきまかせ 男なんかは星の数ほど 泥んこになるまえに奇麗にあばよ 好きでいるうちに許してあばよ(「すずめの涙」)
韓国芸能界での揉め事と失恋の痛みに耐えかねて、日本に逃げるように向かったのは1984年のこと。
「当時日本では青江三奈さんやちあきなおみさんといった先輩がハスキー歌手として活躍していました。でも私のような20歳すぎの小娘が、40代の歌手に交じって人生の悲哀や未練を題材にして歌うのは若すぎるのではないかと自問自答の毎日でした。芸能事務所が用意してくれたマンションから永田町のキャピトルホテル(当時)まで暑い日も雨の日も歩いて通い、ソウルに残した母親にテレホンカードで国際電話をすることが日課でした。1000円のテレホンカードはすぐになくなりました。
日本語の勉強のために部屋ではテレビをつけっ放しにして、水戸黄門などのドラマを見たり、ニュース番組もよく見ました。もちろん美空ひばりさんや島倉千代子さんの歌い方も研究しました。中・高時代には歴史や社会などの教科が好きな子供だったので、テレビを見ながら日本語を覚えました。それに日本のカラーテレビがとても奇麗に映っていたのも新鮮でした。私は韓国でカラーテレビの普及とともに育ったので、歌手の衣装にとてもこだわりがありました。