日本語の勉強のため「水戸黄門」やニュース番組を見ていた
85年に「大阪暮色」でのデビューが決まり、キャンペーンのためにナイトクラブやスナックなどを歌い歩いたことがありました。韓国で80年度MBC新人賞を受賞した私がなんでこんな苦労をしなければならないのかと事務所を恨んだこともありましたが、演歌の基本は大衆(お客さん)の前で会話を楽しんだり、スキンシップしながら歌うことが大切だということを知りました。
私は最初の2つの事務所(第一プロダクションとタイガー・エンタープライズ)では月給制でした。儲け優先主義だと感じましたが、金額は別にしてお金の心配はしないで歌うことに集中できました。私は歌うことが大好きで、歌うことができればそれで満足だったのです。でも途中から事務所と私の方針がぶつかるようになりました。私はファンとのスキンシップを大切にしたい、そのためには舞台装置や照明、スタッフに関する経費でもお金をかけて欲しいという考え方でした。
でも韓国でデビューした時から、自分のギャラが幾らかも無頓着だったんです。子供の頃から貧しい暮らしをしていたので、ちゃんと暮らしていけるだけの給料をもらえれば、それでよいと思っていたのかもしれません。