ジャニー喜多川氏は“日比谷”をブロードウェーにしたかった
ジャニーズのルーツ編(10)
ジャニー喜多川・メリー喜多川に対するメディアの印象は極端に違う。
「僕は黒子」と表舞台に出ることの少なかったジャニー氏は「仕事一筋、寡黙な人」という印象を持っていたが、「普段は冗舌な人」という話を周辺からよく聞いていた。
音楽家の故・服部克久氏も「邦楽・洋楽を問わず音楽の話になると止まらない。知識もあるから話も面白いし、なにより発想も豊か」と語っていた。
メディアの前では見せない素顔も、やがて見せるきっかけになったのが2011年、コンサートのプロデュース回数が10年までの10年間で8419回のギネスに認定されたことがきっかけだった。
振り返ればジャニー氏の動きは記録を意識するかのようだった。自身がプロデュースしていた「滝沢(秀明)演舞城」の舞台広告に“演出・ジャニー喜多川”と大きく書くようになっていた。疑問を演劇関係者に聞くとこんな答えが返ってきた。
「もともとアメリカのショービジネスに感化された人。ジャニーズを立ち上げて成功したことで、国内だけでなく自分の名前を世界に発信したい欲が出始めたのだと思う。そのなかにギネス記録の意識はあったと思う。ギネスに載れば世界中に名前が知れ渡る」