「いのちの停車場」公開は弔い合戦? 映連“抗議”の行方は
映画界が、怒りをにじませる様々な声明の発信を続けている。映画館の団体である全興連(全国興行生活衛生同業組合連合会)に続き、邦画大手4社で構成する映連(日本映画製作者連盟)は24日、6月1日からの「映画館の再開」の要望と併せて、休業要請などを行う場合は「映画館」を不平等に取り扱うことのないよう求めた。
行政に対して、ここまで突っ込んだ声明文は異例である。大きな危機感を持ったものと考える。5月12日からの緊急事態宣言の延長に伴い、東京都と大阪府などの自治体が「映画館」(大規模施設の主にシネコン)を対象に休業要請を継続しているからである。ここに来て、どうやら緊急事態宣言の6月1日からの延長が決まりそうだ。もしそうなった場合、これまでと同じように休業要請はなされるのか。仮に緩和されるのであれば現状とどう事情が違い、その理由は何なのか。まさに、説明責任が求められる。
■映画産業は「興行」「配給」「製作」が三位一体
今回、映連がとくに強調したのは、映画産業の在り方そのものだ。映画産業は「興行」「配給」「製作」が三位一体であり、映画館の休業やそれに伴う新作の公開延期は、興行=映画館のみならず、配給や製作にも大きなダメージを与える。それは作品の製作延期、中止にも及び、製作に携わるフリーランスのスタッフや関係者たちの仕事、雇用にも影響が出るというわけである。
「休業要請は映画館だけの問題ではない」と、筆者は以前から指摘してきたが、邦画大手4社の社長、代表取締役が連名で声明文を出したことが重要だ。シネコン、ミニシアターは観客と接する映画の最前線からの発信を以前から行っていた。それに配給、製作にかかわる邦画大手が加わったことは非常に大きな意味を持つ。監督や俳優たちも、休業に反対の意向を示している。
本稿ではその声明文を引き出すひとつの要因となった新作の公開延期、それとともに、あえてこの時期に公開に踏み切った作品の事情についても考えてみたい。
まず前者でいえば、全興連は4月25日からの緊急事態宣言発令の前には、映画館の座席数制限(座席チケット販売を半分程度など)の提案を政府にしていた。結果、却下されたわけだが、もし映画館が休業ではなく、座席数制限に踏みとどまっていたなら新作の公開はどうなっていたか。少なくとも延期に踏み切る作品数は減った可能性がある。映画館に作品を提供する配給会社からすれば、休業と座席数制限では、その収益がまるで違うからである。休業が避けられ、ある程度の上映の機会が残っていたなら冒頭の声明文はなかったかもしれない。全興連のさきの意見をしっかりと聞くべきであったのではないか。
「戦時中でも映画館は休業しなかった」
ところで、先週5月21日から、吉永小百合主演の「いのちの停車場」が予定どおり公開された。公開に踏み切った背景には同作品の製作者にして、昨年急逝した東映グループ会長の岡田裕介氏(5月27日が誕生日)の弔い合戦の趣がある気がしてならなかった。同社社員からはいろいろな意見があったと聞くが、少なくとも筆者はそう思った。東映は延期するわけにはいかないのだ。
岡田会長には持論があった。関係者から聞いた話だが、全国に映画館が休業を強いられた昨年、「戦時中でも、映画館は休業しなかった」が口癖だったという。「映画」の火を消してはいけない。流れを途絶えさせてはいけない。そんな信念の持ち主であることを踏まえ、「いのちの停車場」の公開はその遺志を継いだようにみえた。吉永小百合も、きっと岡田会長と同じ考えを持っていたのではないだろうか。大変なリスクを冒してまで公開する意味には、計り知れないものがあるのだと思う。
新作の延期、公開に関しては製作会社、配給会社にすれば、様々な姿勢、考え方がある。どちらがいい悪いと無責任にいえることではない。ただ再び冒頭に戻れば、何の説得力ある説明もなくおとなしく休業、延期をしてきたことに対して、映画界全体から怒りが噴出しているのは至極当然のことであろう。休業要請の大きな目的である「人流」が減らない状況が続くなか、休業要請は全く理不尽であることが、日を追って明白になってきた。
映画界は、もはや黙っているわけにはいかない局面にまで追い詰められている。さあ、東京都はどのような対応、はたまた説明責任を果たすのか。じっくりと見届けたい。