山口洋子が中日・不動のエース権藤博と夢見た結婚
「オール読物」という文芸誌がある。1998年3月号で「球春対談・プロ野球は男のロマン」と題した1組の対談記事が組まれた。当時「姫」の店舗を他人に譲渡し、作詞家から作家に主軸を移していた山口洋子と、この年から横浜ベイスターズ監督に就任した権藤博の対談である。
佐賀県鳥栖市出身の権藤は、社会人野球のブリヂストンタイヤをへて、1961年中日ドラゴンズに入団。杉下茂から受け継いだエースナンバー20を背にルーキーイヤーから一軍に昇格。先発投手陣の仲間入りをはたした。いざシーズンが始まると先発ローテーションどころか、69試合に登板。35勝19敗、奪三振310、防御率1・70と超人的としか言いようのない記録を打ち立て、「最多勝」「最優秀防御率」「最多奪三振」の投手3冠に加え、「沢村賞」と「新人王」を獲得。1シーズンの投球回数429・1回は現在も破られていない。
連投に次ぐ連投を重ね「雨・雨・権藤・雨・権藤」とうたわれた権藤博は「東の長嶋茂雄」と並び称された花形選手であり、中日球団史を代表する比類なき大エースと言っていい。現役引退後は野球解説者に転身。その後は中日、近鉄、ダイエー、横浜で投手コーチを務め、98年に横浜監督に就任すると、1年目にしてチームを38年ぶりのリーグ優勝と日本一に導いている。対談はまさに、そのシーズンが始まる春季キャンプ直前に行われたものだった。権藤博と山口洋子は古い付き合いだという。