飯野矢住代誕生秘話<17>「もう一度、昔の2人に戻りましょう」再び銀座の世界へ
1969年の師走、予定日より2カ月も早く男児を出産した飯野矢住代だったが、早産の影響もあってか、翌23日夕刻、男児は亡くなった。24時間足らずの短い生命だった。
年が明けて1月22日、矢住代は「姫」に復帰した。今までのように芸能との「二足のわらじ」ではなくホステス一本となったが、それでもマスコミは矢住代を追いかけた。“スターホステス”の威光は健在だったのである。
《夕刻4時、青山のクラブで働く夫・ジョニィを送り出した矢住代は、銀座の「姫」に勤めに出る用意にかかる。(中略)「姫」にはいるのが7時30分。服を着替えて、夜中の11時30分まで、4時間、「姫」のホステスだ》(「週刊平凡」1970年5月7日号)
このままジョニーとの同棲生活が続くかと誰もが思ったが、入籍はしていなかった。「どうして籍を入れないの?」と聞かれると「ちょっとね」と矢住代は笑ってごまかした。実はこの時点でも、ジョニーは日本国籍を有していなかったのだ。
3月に入ったある日のことである。「俺、もう一度、音楽をやりたいんだけど」とジョニーが言ってきたと「週刊平凡」は伝える。状況が変わったことで、ジョー山中らかつてのメンバーが声をかけてきたか、もしくはジョニーの方から声をかけたか、そのどちらかだろう。彼はどんなドラマーだったのか、改めて音楽評論家スージー鈴木氏のジョニー吉長評に耳を傾けてみたい。