飯野矢住代誕生秘話<10>「私にはジョニーが必要なの。ジョニーにも私が必要だと思うの」
ジョニー吉長。本名・吉長信喜。1949年、福岡県小倉市(現・北九州市小倉北区)にドイツ系アメリカ人の父親と日本人の母親の間に生まれる。父親が朝鮮戦争で戦死し母子家庭となるが、13歳のとき母親が出奔。天涯孤独となる。後年、ミュージシャンとして大成し、“日本のジャニス”と呼ばれる女性歌手と結婚。俳優、ベーシストとして活躍する2人の息子をもうけるなど、比較的恵まれながら63年の生涯を閉じたジョニー吉長にとって、つらく、苦しい少年時代を過ごしたことだろう。
15歳で養護施設を逃げ出すと、日雇い、バーテン、美容師修業と職を転々とし、16歳のときに流れ着いた神戸で、ブルースバンドのボーヤ(付き人)となる。ここから音楽の世界に足を踏み入れた。
上京したのは68年、ジョー山中と出会いバンド「カニバルス」を結成しドラムスを担当する。世のバンドマンらしく貧しい生活を送るも、程なくしてミス・ユニバース日本代表の人気モデルの飯野矢住代と出会っている。「誰か私と焼き肉を食べに行かない?」という矢住代の呼び掛けに「俺、行きたいな」と応じたのがジョニー吉長だったことはすでに触れた。初対面の2人が互いの身の上を話したことは想像に難くない。