プロレスラー井上京子さん「借金で3回死のうと思った」…現在も貧乏継続中
井上京子(プロレスラー/52歳)
1980年代からの女子プロレスブームの後半、ヒール軍団・獄門党でブル中野らと暴れまくって人気を博した井上京子さん。派手なペイントが印象的だった。新団体を設立してから借金を背負う超貧乏な日々。「ディアナ」を率いる今も貧乏継続中だと明るく語ってくれた。
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「貧乏物語」ってテーマは私にピッタリです(笑い)。私が全女(全日本女子プロレス)に入った88年はクラッシュギャルズ(長与千種・ライオネス飛鳥)さんやダンプ松本さんが引退される頃で、いい時代の最後の頃でした。ブル中野さんや北斗晶さんが徐々にメインイベンターになっていった頃です。
最初は寮生活なのでごはんも食べられたし、お金に困ることはなく過ごせました。
2年目から寮を出なくちゃいけなくて、一人暮らしを始めた時が貧乏の始まり。寮があった目黒に女子プロレスラーが多く暮らしていて、試合から帰った深夜にコスチュームの洗濯をするので、うるさい連中と噂になり、「女子プロレスラーお断り」の賃貸住宅もありました。部屋で暴れる先輩とかいたからですかね?(笑い)
お給料が少ないから3万円のフロなしで共同シャワーのアパート暮らし。あまりに古い建物で虫が出る。怖くて寝袋で寝ていましたよ。1カ月間の巡業から帰ると、ゴキブリがガサガサと動く音が聞こえるほどでした。
■家賃7カ月滞納、給料は6カ月未払いの全女時代
高卒ですぐ全女に入って寮生活をしていたから賃貸暮らしの仕組みがよくわからず、7カ月間も家賃を滞納した時がありました。高齢女性の大家さんがとってもいい人で「井上さん、そろそろ家賃お願いね」とやさしく言われて、やっと未払いに気づきました。
私が所属したヒールたちの獄門党のトップ、ブル中野さんは毎日ごはんに連れていってくれて食費の面で助かりました。
私も試合で活躍できるようになった入門10年目の97年に、後輩が「京子さん、給料もらってますか?」と聞きにきて。「なんで?」と聞き返すと「何カ月ももらってないんです」と。
確かめてみたら、私自身は6カ月もらってなかった! 若手の頃は気づかずに家賃を7カ月滞納し、一人前になった頃は6カ月給料をもらってないことに気づかない(笑い)。私はお金のことが気にならない人だから。
その時に「会社、ヤバイ状態なんだ」と初めて気づきました。若い後輩たちは「給料もらえないと生活できません」と言うので、私は新団体をつくろうと考えて。
他の選手も「給料出ないなら辞める」となり、アジャ様(アジャコング)は水面下で違う団体をつくる動きをしていて、私にも「一緒につくろう」と言ってくださる方がいたので、思い切って決意しました。
その方と全女の社長に「団体つくります。若い子も何人か連れていきます」と伝えに行くと、社長は「わかった、いいだろう」と即、承諾。払う給料がないわけですから引き留められませんよね。
アジャ様の新団体に入る選手、私のネオ・レディースに入る選手、全女に残る選手と大きく分けて3つに割れたわけです。
そこからが本当の貧乏! 何も考えずに行動すると貧乏するっていう見本です。結論を言うと選手しかやったことない人が社長や代表をやっちゃダメです(笑い)。それに私は、人よりお金の扱いが下手ですし。
知人に「俺は3億円だぞ」と言われて思い直した
最初は資金が3000万円あったけど、半年で消えました。リング代や選手の給料、道場の家賃と、お金がかかる。一緒に立ち上げた人たちもいなくなっていき、そこから私個人で6000万円の借金。山形の実家も担保に入れました。男子レスラーで団体をつくる人は結構いますけど、自分の実家を担保にしたレスラーは私だけだと思います。実家の家族は冷や冷やしてましたよ。
今振り返ると私、3回死のうと思いました。
その時にある知人から「6000万円で死のうなんてバカ言うな、俺なんて借金3億円だぞ」と聞かされ、私は「上には上がいるんだな」と、死ぬのを思い直して。
当時の社長が半分を肩代わりしてくれて、私は20年かけて3000万円をコツコツ返し続け、現在残り1000万円を切りました!
その間、飲食店を開いて後輩にも働いてもらい、お金を渡していましたよ。次の団体設立を経て今まで、支援やファンの方の力でここまでやれました。借金を返すまでレスラーはやめられない。これからもレスラー井上京子をよろしくです。もちろん、スポンサーも探してます。よろしく!(笑い)
(聞き手=松野大介)
■ディアナ興行は、2022年1月23日、東京・新木場大会開催(正午開始)
▽いのうえ・きょうこ 1969年4月、山形県出身。全日本女子プロレスで88年デビュー後、新団体を経て現在「ワールド女子プロレス・ディアナ」社長。