五木ひろしの光と影<29>「五木をレコ大歌手にする」士気を高めた徳間音工の宣伝チーム
1969年に制定された「日本歌謡大賞」は、毎年高視聴率をはじき出していた「日本レコード大賞」に倣って、TBS以外の民放8局によって制定された音楽賞である。TBSが独占するレコード大賞のようにはせず各局持ち回りで放映された。「公平性を保つため」というが、はたしてどうだったか。1993年に24年の歴史に幕を下ろした「日本歌謡大賞」がレコ大の権威を超えることはついになかったが、所属歌手を抱える音楽関係者にとっては「中盤戦の天王山」「レコ大の前哨戦」とみる向きもあり、開催自体、非常に重要な意味を含んでいた。
当初、野口修は「レコ大の前祝いだ。歌謡大賞も絶対に取る」と豪語したが、結果から言うと、大本命の「危険なふたり」(沢田研二)があっさり受賞した。さすがの野口も肩を落としたというが、周囲の関係者には「吉報」と捉える者も少なくなかった。彼らは「野口さん、かえってよかったよ。チャンス到来。これでレコ大はいける」と言ってきた。「何を言うんだ。前哨戦に敗れて、チャンス到来もへちまもないだろう」と抗弁する野口に「いやいや、これでよかったんだって。後でわかるよ」と一笑に付した。その中には野口と懇意にしていた渡辺プロダクションのマネジャーも含まれたという。