沖縄アクターズスクール校長・マキノ正幸が語る半生 そして安室奈美恵との衝撃の出会い
マキノ正幸(沖縄アクターズスクール校長/80歳)
今年5月、沖縄が本土復帰して50年を迎える。春からは沖縄出身の女優・黒島結菜が主演で沖縄を舞台にしたNHK連続テレビ小説「ちむどんどん」もスタート。これまで沖縄文化はさまざまな形で発信されてきたが、こと芸能界では「沖縄アクターズスクール」がその代名詞だろう。ダンスミュージックという新たな音楽シーンを生み出し、安室奈美恵、SPEED、DA PUMPら多くのスターを輩出した伝説の男の生涯は、沖縄戦後史と軌を一にする。
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「沖縄アクターズスクール」創設者・マキノ正幸氏(80)が初めて沖縄を訪れたのは返還1年前の1971年にさかのぼる。現在は本島中部の北谷に居を構える氏は、レッスン場を兼ねた広いリビングで、ソフトな口調で語り始めた。
■渡哲也に誘われ気分転換で沖縄に
初めて沖縄に来たのは30歳の時でした。経営していた福島のスキー場が倒産してね。東京にいればなにかと雑音が入る。哲(渡哲也・青学の同窓生)に誘われて気分転換に選んだのが沖縄でした。まだパスポートが必要な時代だったけど、海外のリゾート地のように素晴らしい海と自然。女性もエキゾチックで魅力的だった。行き来しているうちにとりこになり、妻子を残し、一年の半分以上は沖縄にいました。亡くなった母親が残した土地を売った金と、馬主(最年少個人馬主として10頭以上を所有)の収入で金の心配はなかった。今思えばですが、いとこの長門(裕之)や津川(雅彦)ら芸能界の仲間は順調に活躍を続け、哲も(石原)裕次郎の事務所入り。自分だけ時間が止まっているようでしたね。
ーー働き盛りの年齢。不安や焦りはなかったのか。
僕は子供の頃から両親の名前でチヤホヤされた根っからのボンボン育ち。もともと、まともに就職したことがないから焦りはなかった。むしろ、「うまい話にありつけるのでは」と、僕というよりマキノ一族に近づいてくる人に嫌気が差していた頃。環境を変え、人目も気にせず過ごせる沖縄は別天地でした。
ーーそれが後のアクターズスクールにどうつながったのか。
芸能はぜんぜん頭になかった。那覇の繁華街が活気づいてきたのを体感して、自分の店を出すことを考えたんです。かつて六本木でジャズクラブを経営したノウハウを生かして生の音楽を提供する「ジュエルパレス」という店を那覇の泊に出した。沖縄に来て3年目です。ホステスには政治から経済まで新聞を読ませて勉強させ、どんな客とも会話できるように仕込んだ。瞬く間に人気店になりましたよ。腰を据えるために家も300万円ぐらいで買った。まだ治安の悪い頃で一人暮らしが怖くて夜通し遊んで朝帰りの日々でした(笑い)。
■「平尾昌晃の学校がすごい人気」で決心
ーー遊び仲間の俳優たちが沖縄に来ては店に顔を出していたそうですね。
まだ東京からの情報が入りにくい時代。最新情報は店の経営にも役立つ一方で芸能界事情も聞けました。俳優の川地民夫が来て「作曲家の平尾昌晃の学校がすごい人気だ」と芸能学校の経営を勧めてきた。新しいことにすぐ手を出す性格は直らない。多少の金はある。決心するのに時間はかかりませんでした。
ーー芸能界は東京が中心。沖縄は不利では。
子供の頃は太秦の撮影所で遊び、大学卒業後は長門裕之が始めた芸能事務所「人間プロ」で文字通り“なにも専務”でした。ただ、築き上げた芸能界の人脈があるので、芸能に関する仕事ならやれると思いました。すぐ東京に行き講師を探した。生徒を集めるために知名度のある長門を理事長にしてテレビでも宣伝してもらった。長門効果は絶大で、500人近い応募があり面接して100人に絞り、ビルの一室でスタートさせました。
ーー1983年4月開校。当初は順調ではなかったと聞いています。
生徒の入学金でスタジオや録音室を借り、講師まで集める自転車操業でしたが、沖縄初の芸能学校は話題を集めた。はたから見れば“儲かりそうな仕事”に見えるのでしょう。講師に雇っていた元俳優が独立して生徒を引き抜いたんです。で、残ったのは私の2人の子供も含め6人。私が東京の芸能プロとのパイプづくりに奔走していた間隙を突かれました。悪いことは重なりナイトクラブも赤字がかさみ閉店。残っていた3頭の競走馬も故障。収入を絶たれ借金生活。何不自由なく暮らしてきましたが、48歳にして初めて味わうどん底でした。
ーー家を売り、家賃2万5000円の木造アパート暮らしになったそうですね。
債権者との裁判では弁護士を雇わず、「ないものは払えない。必ず返す」と直談判。アクターズを潰す気は毛頭なく、再建して意地を見せる気でした。今度は人任せではなく、自ら指導にも責任を持つ覚悟でした。
借金返済に追われる中、運命の出会い
ーー歌もダンスも経験のない校長がどうやって?
小さい頃からアメリカ音楽を聴く家庭環境でしたから、自然と英語の勉強にもなったし(今も流暢な英語を話す)、体でリズムを取れるようになっていた。東京の店でも盟友の世良譲のピアノでよくジャズを歌っていたし、セミプロぐらいのレベルにはあったんです。ジャズにソウル、R&Bはよく勉強した。そこで得たのが「体の中でビートを打つ」感覚。実際、ジャズプレーヤーのシングがそう。ダンスを見ても日本人は筋肉で踊る。本当は体の軸で踊る感覚でないといけない。それを先天的に持っている子が沖縄にはいたんです。
ーー安室奈美恵さんですね。
安室の前にギンコ(GWINKO)という子が14歳でデビューしています。この子も最初から他の子とは違うオーラがあった。レッスンさせると全身で力強く歌い踊る。ギンコは日本の音楽シーンに一石を投じました。少しデビュー時期が早かった感もありましたが、確かな足跡を残してくれた。ギンコのおかげもあり、アクターズに再び生徒が集まりだし、活気を取り戻した。応募者の中に友達の付き添いで来ていた安室がいたわけです。ギンコを見た衝撃を覚えているから、安室も一発で「いける」と思いました。
ーー1987年秋、10歳の安室奈美恵との運命の出会いにつながります。
見学していただけなのに目に入ってね。小顔で細身だけどバランスのとれた体形。スタジオの隅を歩いていても跳ねるような躍動感がある。ギンコと似たオーラを感じました。帰りを追いかけ、授業料なしでレッスンを受けないかと交渉。翌日、母親を連れて来て了承を得ることができました。
ーーそれほど才能に確信があった。
挨拶に来た母親に「この子は絶対にものになる」と言い切っていた。怪しいと思われたでしょう。奈美恵もプロを目指していたわけでないから気楽な面もあったとはいえ練習になると誰よりも際立っていた。伸び伸びと自然体で踊る。動きに無理がない。見立て通りでした。地元テレビ局のカラオケ大会で優勝するなど実践でも成績を残した。番組で一緒になった今井絵理子(元SPEED)は安室を見てライバル心を燃やし、アクターズに入ってきました。彼女も才能はあった。参議院議員としての才能はどうかな(笑い)。
ーー1992年にデビューした安室は2018年に引退。沖縄の本土復帰後、フィンガー5、南沙織の活躍があったが、安室の出現は芸能界の勢力図を大きく変えた。98年の「紅白歌合戦」には安室、MAX、SPEED、DA PUMPと4組のアクターズ出身者が出場。沖縄ブームを起こしました。沖縄出身の芸能人の特徴は何でしょう。
太平洋戦争では沖縄戦という悲劇のあと米軍の占領下となり、アメリカ人と結婚した沖縄の女性は多くいました。生まれた子供たちは「混血」と差別された歴史があります。ですが、私は沖縄の子を見てハーフ特有の独自の感性を持っているように見えました。その象徴的な存在が安室を筆頭にしたスクール出身の子たちですが、改めて気づいたのは、すでにハーフから1世代下のクオーターが活躍していることです。安室家も母親がハーフで奈美恵はクオーター。ISSAも女優で活躍している満島ひかりもクオーターです。ハーフに代わりクオーターの時代に入っている。ここにも復帰から50年の時の流れを感じます。ハーフと違い、クオーターは日本人にとって外見的な親しみやすさもある。それでいて歌や踊りは独特のリズム感がある。この沖縄の多様性はエンタメ界に向いていると思う。その才能を私は引き出すことができたと自負しています。
ーー改めて沖縄での半世紀を振り返ると。
祖父の牧野省三が監督として京都を舞台に映画文化を発信。太秦を人気スポットにする下地をつくった。私も沖縄の地に渡りダンスミュージックを発信してきた。気が付けば祖父の背中を追いかけていたのだと思います。沖縄には才能あふれる子がいて、エンタメの世界で輝く余地は十分にある。私もまだまだいろいろな仕掛けを考えていますので楽しみにしていてください。
(聞き手=二田一比古/ジャーナリスト)
▽マキノ正幸(まきの・まさゆき) 1941年、京都府出身。青山学院大学経済学部卒。祖父は日本映画の父である牧野省三。父は映画監督のマキノ雅弘、母は宝塚歌劇団卒業生で映画女優の轟夕起子。長門裕之・津川雅彦はいとこという芸能一家に生まれる。観光会社経営などを経て、83年、沖縄アクターズスクールを設立。安室奈美恵をはじめ、MAX、SPEED、DA PUMP、山田優、満島ひかりら多くのアーティストを生み出す。