追悼・西郷輝彦さん…「ご三家」の強烈ライバル意識、西城秀樹に道開く歌謡ロックに先鞭
「60になると今まで気付かなかったような、本当にやりたかった自我が出てくる。それを実現させていくのが70歳から」
このほど75歳で亡くなった西郷輝彦(本名・今川盛輝=いまがわ・せいき)さんは、そんな前向きな言葉を幾つも残し行動した。
2011年に前立腺がんと診断され、全摘出するも、17年に再発し、さらに骨への転移がありステージ4に。このとき医師から緩和ケアを勧められたが、日本では未承認の抗がん剤治療を選択し豪シドニーへ。YouTubeチャンネルを立ち上げ、「もう少しだけ好きな仕事をしたい。仕事復帰し、同じ病と闘う皆さまの希望になれば」と頑張った。昨夏には「私のがんが消えた画像をこの目で見た。奇跡は起こります」とテレビで語り、笑顔を見せていた。昨年9月下旬に帰国後も復帰を目指し療養した。しかし12月に体調を崩し都内の病院に入院、20日午前、静かに息を引き取ったという。
「君だけを」で歌手デビューし「十七才のこの胸に」「星娘」などの青春歌謡で人気を博し、橋幸夫、舟木一夫との「ご三家」で一世を風靡。「星のフラメンコ」などのヒット曲を残したほか、俳優でも第一線で活躍、バラエティー番組の司会も務めた。
「ご三家」で人気沸騰
鹿児島県出身。活発で目立つことの大好きだった高1、15歳で友達からカンパを集めて家出。バンドボーイとして大阪、京都、名古屋などを転々としながら東京に来て浅草のジャズ喫茶で歌っているところをスカウトされた。
「故郷を離れて、東京に行くことができるなら、歌手でも俳優でも何でもよかった」と後年、振り返っている。
「ご三家、といっても雑誌の命名したキャッチフレーズで所属事務所もバラバラなら、グループでもなく、それぞれのファンが競い合って応援することで人気が沸騰したのです。当人たちはそうでもなかったそうですが、事務所もレコード会社もライバルで、インタビュー時間の長さや雑誌の表紙での写真の大きさまで争い、ステージの袖で取っ組み合いの喧嘩をするほど熱を上げていた。芸能界も芸能マスコミもファンもそれは熱かったんです」(元芸能プロ関係者)
歌謡ロックに先鞭をつけた功績
西郷さんは私生活でも、話題の中心だった。1972年に歌手辺見マリと軽井沢で極秘挙式。辺見えみりら1男1女をもうけるも、81年に離婚。90年に事務所関係の19歳年下の女性と再婚し、3女に恵まれた。
ご三家は99年に揃って「メモリアルコンサート」で全国を回り大成功を収めたが、橋幸夫(78)は歌手活動の引退を発表。最年少の西郷さんが亡くなり、舟木一夫(77)だけとなってしまった。構成作家のチャッピー加藤氏はこう言う。
「ご三家というと青春歌謡のイメージがありますが、あくまで歌謡曲に軸足を置いた橋さん、舟木さんと違い、西郷さんはいち早くロックに比重を傾けていった。これは歌謡史の上でも重要なことです。1970年に、新進作家の阿久悠・川口真コンビに曲を依頼。サビで♪ワーオ! というシャウトの入る『真夏のあらし』は、ロックと歌謡曲の融合を試みた画期的な作品でした。同じくロック路線を突き進んだ新ご三家の西城秀樹さんに道を開き、歌謡ロックの先鞭をつけたのです」
昭和を生きた芸能人がまた一人、この世を去った。