悠仁さまの帝王学はどうなっているのか「愛子天皇」待望論と秋篠宮家の事情で定まらぬ未来
3月17日、成年を迎えた愛子さまが初の記者会見でこう述べた。
「私は幼い頃から、天皇皇后両陛下や上皇上皇后両陛下をはじめ、皇室の皆さまが、国民に寄り添われる姿や、真摯にご公務に取り組まれるお姿を拝見しながら育ちました。そのような中で、上皇陛下が折に触れておっしゃっていて、天皇陛下にも受け継がれている、皇室は、国民の幸福を常に願い、国民と苦楽を共にしながら務めを果たす、ということが基本であり、最も大切にすべき精神であると、私は認識しております」
「天皇になるための教育」を指す「帝王学」という言葉がある。「帝王学」は学問として学ぶことも必要だが、天皇の背を見て学ぶことも大事と聞いた。愛子さまはしっかりと両親から学んでいるように思える会見だった。
平成の天皇陛下もそうだった。まるで昭和天皇が残した負の遺産を清算するかのように「慰霊の旅」を続けられたのは、もちろん自らの疎開体験もあるが、昭和天皇と食事を共にしながら、その苦悩や覚悟を聞かれたからだろう。
愛子さまの会見には好意的な意見がたくさん集まった。「次世代の天皇にふさわしい」「すてきな笑顔で話される姿に感動した」など、眞子さまのときとは真逆である。ただ、愛子さまが表に出れば出るほど、悠仁さまの「帝王教育」はどうなってるの、といった声が高まってくる。どうしてもおふたりは比較されるらしい。
実際、「悠仁さまに早く帝王学を!」といった声もあるが、その「帝王学」を昭和天皇が受けた「帝王教育」を想定しているならちょっと違うように思う。
今の天皇は立憲君主でもないし、悠仁さまがなるのは象徴天皇以外にないからだ。
先にもふれたが、「帝王学」は、知識として学んでいく方法と同時に、天皇を「生きた教科書」として学んでいく方法がある。
前者に関しては、秋篠宮さまと紀子さまの判断によるが、後者に関しては、秋篠宮さまは天皇陛下でないことと、「皇太弟」の称号を辞退されたとき、「皇太子たるべく教育を受けてきていない」と述べたのが事実なら、悠仁さまの「教科書」にはなれないだろう。
「帝王学」を必要とするかどうかは、天皇の在り方をどう考えるかにもよる。例えば、これまでのように極力「私」を消して、「一視同仁(すべての人を平等に慈しむ)」の天皇を想定するなら、ある程度の「帝王教育」は必要かもしれない。
ただし、現在は過去の体験が役に立たない時代である。デジタル社会になって象徴天皇を支える国民も大きく変わっていく。そんなことを考えると、悠仁さまが筑波大付属高から東大へ進むコースも否定はできないだろう。大学で多様な人に出会えば、当然個性が育てられて自己主張が出てくる。これまでとは全く違う天皇陛下が登場するかもしれない。
ただ不安がある。例えば、天皇陛下のお言葉というのは右左をはっきりさせず、なんとなくモヤに包まれているような印象がある。しかし、個性が育てばはっきり主張するようになるだろうが、かわりに「NO」を突き付ける人も出てくる。
それ以上に不安なのは、これまでと違った悠仁皇太子の登場で、愛子さま派と悠仁さま派に分かれて国民が分断されかねないことだ。
東大を目指すようになったら「帝王教育」は無理といった批判も根強いが、少なくとも旧来の「帝王教育」は秋篠宮さまの念頭にはないのではないか。秋篠宮さまは自由と自主性を尊ぶが、「帝王教育」はそれを否定するからである。(つづく)