70年代を彩った元「フィンガー5」妙子さん 音楽とは無縁の生活、再婚した年下夫と平穏に暮らす
妙子さん(元「フィンガー5」/60歳)
沖縄が日本に返還された1972年にデビューした「フィンガー5」。「個人授業」「恋のダイヤル6700」「学園天国」とミリオンセラーを連発し、一大旋風を巻き起こした。男の子4人と女の子1人のきょうだいバンド。あどけない可愛らしさで“トンボのサングラス”の兄の晃と共に人気だった末っ子の妙子は当時まだ10歳そこそこだった。すでに還暦を過ぎたはずだが、今どうしているか。
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土曜の夕方、待ち合わせ場所に現れた妙子さんは少し緊張した様子だった。
腰を掛けるとバッグからメモ用紙を取り出しテーブルの上に置き開いた。
「インタビューは久しぶりで、昔から苦手なんです。兄にも相談してなにを話すかメモしてきたんですよ」
解散して半世紀近く。今も変わらない笑顔で当時を振り返ってもらった。
「私は小学校に入る前に東京に来ているので沖縄の記憶が薄いんです。母の住む沖縄に行くのも帰省というより観光に行くみたいな。思い出の大半は東京での芸能活動。当時の楽屋は男女に分けた大部屋で、最初は私も男の楽屋でしたが、西城秀樹さんとトランプして遊んでもらったりしていました。途中、私だけ女性部屋に移りましたが、扉に(妙子)と書いてあって笑えましたね。兄たちに守られながら過ごした芸能界での貴重な経験は楽しい思い出ばかりです」
解散についてはこう話す。
「私は兄に言われて音楽を教わりメンバーになったので、遊びみたいな感覚でした。解散は今も実感がないの。一番上の兄も『きょうだいに解散はない』と言っていた。常に連絡も取れるし、東京にいるおんちゃん(兄の呼び方)とは食事もする。また音楽をやろうと思えばできそうだけど、復活はないでしょうね(笑)」
今もきょうだいの仲の良さがうかがえるが、当時の舞台裏は……。
■当時は取っ組み合いの喧嘩ばかり
「本当は家では兄同士、いつも取っ組み合いの喧嘩ばかりしてましたよ。顔だけは殴らないというルールは守っていたけど。私は“また始まった”ぐらいに思っていて、家ではぽわ~んとしている子でしたよ」
解散後、妙子さんは高校に通い卒業後はコンピューター会社でキーパンチャーとして働いた。
「顔バレしていた頃で、なかには“落ちこぼれ”とバカにしてくる人もいましたが、父に“ファンは大切にしろ”と厳しく言われていたので、なにを言われても笑顔でかわしていました。兄たちは自立していきましたが、私は両親と暮らしていました。親は、早く沖縄に帰りたいといつも言っていて、私が嫁げば帰れるので、OLの頃は“早く結婚しろ”といつも言われていましたね」
親からのプレッシャー(?)で、三男・正男が経営していたバーのお客と知り合い20歳の時に結婚。翌年、長女を出産。家庭に入った。
「母のしつけが厳しくて、音楽活動しながら皿洗いや掃除はやっていました。裁縫は、危ないからと教わらず、中学の家庭科で習った程度ですが、楽しくて今も趣味でバッグを作ったりしています。子育ても楽しかったし、学校のPTAの集まりも面白くて欠かさず出ていました。私は音楽より主婦に向いていたのかな」