本橋信宏氏がふり返る「北公次の告白」ジャニーズ性加害を見て見ぬフリしたメディアへの提言
本橋信宏(作家)
ジャニーズ事務所の性加害問題が風雲急を告げている。所属タレントのCM打ち切りが相次ぐ中、そのきっかけをつくったのは被害者たちの勇気ある告発だ。
しかし35年前、元フォーリーブスの北公次(2012年没=享年63)がその著書「光GENJIへ」(データハウス)で、ジャニー喜多川氏からの性被害をすでに告発していた。が、当時の大手メディアはその存在を完全無視。同書のゴーストライターだった作家が近著「僕とジャニーズ」(イースト・プレス)でその内幕を明かした。
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──「光GENJIへ」の著書や映像が地上波で取り上げられて話題です。そもそもゴーストを担当することになった経緯は?
当時私は32歳のフリーライターで、もともと仕事上で付き合いのあった村西とおる監督が、所属タレントの梶原恭子と田原俊彦のスキャンダルを巡り、ジャニーズ事務所と敵対関係にあったんです。監督はジャニーズに一矢報いようと、電話回線を引いて「ジャニーズ事務所(秘)情報探偵局」を開設。ジャニーズの裏情報を募った。
その中に「北公次がジャニー喜多川と同棲していた」というものがあったんですよ。それでスタッフが1978年のフォーリーブス解散後、覚醒剤による逮捕を経て、地元の和歌山県田辺市で土木作業員をしていた公ちゃんを捜し出し、東京に連れてきた。それで私に白羽の矢が立ったんです。
──初対面の印象は?
1988年の夏、ホテルニューオータニのラウンジでした。公ちゃんは、かつてのオーラは全く消えていて、生気はなく、目はうつろで土気色の肌をしていました。お金がないから、薬物はやめていたけれど覚醒作用がある風邪薬を大量摂取していたようです。
■4日目の夜、北公次は関係を話し出した
──それで監督による「北公次再生計画」と“暴露本”の取材が始まります。
当時、ジャニー氏の性加害は都市伝説の類いでした。しかし、私は単なる暴露本ではなく、地方出身の貧しい少年が紅白に7回出場するまでの栄光を駆け上がり、そして挫折していく過程をライフヒストリーとして書きたかった。その中で、ジャニー氏との関係を描きたかったんです。小説や映画に駄作はあっても、人の半生には駄作はひとつもない。私はそこに興味がありましたから。
しかし取材は難航を極めました。浅草ビューホテルで、生い立ちから逮捕まで聞いていったのですが、「ジャニー氏と親密な関係にあったというのは本当か」と何度か水を向けても、「そういうのは単なる噂で俺は知らない」とはぐらかされてしまう。それが変わったのが4日目の夜でした。
──きっかけは何だったのですか?
前日、監督と話をしたようです。監督は、当時ブレークしていたMr.マリックを見て、ジャニーズに負けずにラスベガスなどで世界を相手に活躍できるのはマジックだと確信し、北公次にマジシャンとしての再出発を提案。資金提供も約束していた。監督は本気でした。「あなたは世界的なエンターテイナーとして生まれ変わるのだから、ここですべてをさらけ出して話すべきだ」という監督の情熱に公ちゃんもほだされたんです。
──結果的にそれがジャニー氏による性被害者の初告白となりました。北公次は「実は謝らなくちゃいけないことがある。ジャニーさんとの関係は、実はあったんだ……」と堰を切ったように話し始めたそうですね。
公ちゃんは、ジャニー氏にスカウトされ、新宿にあったジャニー氏の部屋を住居として与えられた。当時16歳。そこで女性を知る前にジャニー氏との初体験を余儀なくされたこと、毎晩のように行われる口淫や肛門性交をデビューしたい一心で我慢したこと、ジャニー氏との関係はその後4年半に及び、ジャニー氏と同性愛者でない公ちゃんが“夫婦のような関係”になったことなどを一気に話しました。話は深夜にまで及び、終わった後は、公ちゃんも私も放心状態でした。
──その後、2週間で書き上げた「光GENJIへ」は、35万部を超える一大ムーブメントとなりました。
それでも、ヤク中の妄想だとか、心ない言葉を投げかけられ、完全なゴシップ扱いでした。テレビ局や新聞社にかけあっても鼻で笑われ、どこも取り上げてくれない。完全になかったことにされていました。扱ってくれたのは、一部の夕刊紙や実話誌だけです。当時から、ジャニーズに対する忖度やタブーは存在していたんです。命を懸けた告白なのに、どこも扱ってくれないことに公ちゃんは苛立ち、絶望感を抱いていましたね。