藤あや子さんはデビュー10年で心折れかけ…秋田に帰るか迷っていた時に出合った歌
美人演歌歌手として「こころ酒」のヒットや紅白歌合戦連続出場で知られる藤あや子さん(62)。近況は愛猫家としても有名で、あす22日にはコミック「マルとオレオ ふたりはなかよし」が発売される。歌手人生の岐路となったのはデビュー10年目に歌った「雪 深深」。苦節の日々を伺った。
◇ ◇ ◇
私の田舎は秋田の角館です。「みちのくの小京都」といわれ、秋田市からは東に50キロくらい離れた桜の名所としても知られています。春は「桜まつり」が開かれ、秋には武者人形を飾った山車が出る秋祭りが行われ、街が賑わいます。
10歳からその山車の上で踊る、踊り子の手踊りに憧れたのが芸事の始まりです。民謡歌手から演歌歌手になったといわれますけど、元々は踊り子でした。高校に入ってからも手踊りのイベントに駆けつけ、踊ってばかりいましたね。
歌といえば山口百恵さんフリークで、新曲が出るたびにレコードを買っては聴いていました。それからニューミュージックやロックも。当時はボン・ジョヴィやエアロスミスが好きで、何年か前にエアロスミスが来日した時は花束を届けて、スティーブン・タイラー、ジョー・ペリーと対談の場を設けていただけて、うれしかったですね。最近ではブルーノ・マーズ。ラスベガスまで2度も見に行きました。
そんな私が民謡を始めたのは手踊りをやっていたことと、秋田には民謡の一座というのがあってそこで踊ったのがきっかけですね。一座は三味線に尺八、笛、歌のお姉さん2人くらいの5、6人で構成され、踊り子がそれに合わせて踊る。私は20歳で出産して子供を抱えていたので、アルバイトで呼ばれて手踊りをやっていました。乳頭温泉とかのアトラクションにはよく駆り出されました。
そのうち手踊りだけでなく、太鼓や掛け声はできないか、民謡を1、2曲、歌謡曲も1、2曲歌ってくれないかと言われて。百恵さんやロックが好きなのに、いきなりこぶしを回さなきゃならない……。正直、戸惑いましたね。でも、それをやらないと一座のメンバーに入れてもらえない。
先輩たちが「歌え」と言うのもわけがありました。みんなそういう経験をして今があるということを教えようとしていたんですね。声を絞り出すようにして歌っているうちに「かんの声」が出るようになるからと。「かんの声」は民謡の張り詰めた高音のことです。例えば、刀を研いでいくとだんだん光っていくように、喉をこすり上げ、磨いていった時に出るキッと張り詰めた声です。
それで川中美幸さんを好きな父が買ってきたレコードを聴いたりマネして歌ったり、我流でやっているうちに、なんとなく民謡も歌謡曲も歌えるようになりましたが、しばらくして行き詰まりました。1年後くらいですね、師匠につこうと思い立って、秋田で民謡のど自慢の日本一になられた千葉美子先生の門を叩きました。
■子育てしながら3時間かけて通ったレッスン
それからは秋田市内まで往復3時間、毎週1時間、千葉先生のレッスンに通いました。あの頃は子育てはあるし、温泉場のアトラクションの仕事もある、民謡、演歌のレッスンも。寝る間もないくらい忙しかった。歌の練習も徹底してやりました。
ノートに詞を書いてこぶしを回すところ、ブレスをするところに記号を書いた譜面を作ったり。親友の坂本冬美さんのように生まれながらにしてこぶしを回せるのとは全然違いましたからね。難しいけど、できないのが悔しい。本当に必死でした。
喉は民謡を歌って2度潰しました。声帯が腫れて喉から出血し、かすれ声しか出なくなった。お医者さんにはしゃべっちゃダメと言われるし、でも先輩たちからは、そこから声を絞り出すと「かんの声」が出るようになるからと言われ、泣きながら歌いました。
そのおかげで、秋田は民謡日本一がぞろぞろいて大会で優勝するどころか、3位入賞も夢の夢くらいのレベルの高さですが、千葉先生について3年で県の大会で優勝して、やればできると実感することができました。