昭和最後の伝説左腕 阿波野秀幸「細腕奮闘記」
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横浜での最後の試合で胴上げ直後、「社長が呼んでいます」とマネジャーがすっ飛んできた
編成に来季の構想から外れたと通告されたものの、権藤監督の話でいったん白紙に戻った。が、翌日、同じ人から再び構想外と通告されることに。前日の経緯が経緯だけに、最終決定かと念を押すと、その通りだという。…
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あと1年できると手応えも 36歳で受けた「戦力外通告」が二転三転した裏側
2000年のシーズン後半、秋口に一軍に上がると調子がいい。 9月1日にリリーフで2回と3分の1を無失点に抑えてこの年、初勝利。10日の広島戦もリリーフで2勝目を挙げた。若手を教えることによっ…
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球宴の最中も激しいトレーニングを積むロッテ村田兆治さんに衝撃を受けた
プロ1年目、1987年のオールスターに出たときのことだ。 オールスターは他球団の選手と話をする格好の機会。ベンチが同じパ・リーグのベテラン投手と話をすることで得るものは大きいと思った。 …
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2000年前半は二軍生活…自分の与えたヒントで改善する若手の成長が楽しみだった
プロ初安打は1999年8月10日、横浜スタジアムの広島戦だった。 紀藤真琴から放った中前打は、適時打のオマケ付き。猛暑のさなかに、打って走って青息吐息。バテバテで、先発しながら4回3失点で降…
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濡れたボールをそのまま投げる胸中…35歳で知恵と工夫が必要と痛感
あれは横浜に移籍して2年目、1999年のシーズンだった。 雨の日に神宮球場で投げていたときのことだ。使っていたボールは結構、グラウンドを転がっていて濡れている。内野手がボール回しをして、最後…
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自分が育った横浜で…ヤンキースのような紙吹雪舞う中の優勝パレードは生涯忘れない
赤、青、黄、緑、白……無数の紙吹雪が、ビル風に舞って頬をかすめていく──。 日本一になった横浜の優勝パレードは1998年11月3日、秋晴れの祝日に行われた。 抜けるような青空のもと、…
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西武との98年日本S第6戦 全球ストレート勝負で初の日本一の感慨
0-0で迎えた八回1死二塁。迎える打者は3番・高木大成と4番・鈴木健。私は1点もやれない場面で、先発の川村丈夫をリリーフした。 1998年、西武との日本シリーズ第6戦。横浜はここまで3勝2敗…
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王手をかけた98年日本シリーズ第6戦 マウンドに向かう途中で「10.19」リリーフがよぎった
「抑えろよ!」 「なんとか頼む!」 割れんばかりの声援の中、私は一塁側のブルペンからリリーフカーに乗ってマウンドへ向かった--。 本拠地横浜スタジアムのスタンドは、チームカラーの…
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ビールかけのやり方がわからない? 38年ぶりのリーグ優勝ゆえに起きたトラブルの中身
舞台となった宴会場の床はびしょびしょ、辺りには独特のアルコール臭というか、ビールの臭いが充満していた。 1998年10月8日、横浜は甲子園球場で阪神を下し、リーグ優勝を決めた。 その…
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38年ぶり横浜リーグ優勝の1週間くらい前から「2次会」会場の下見を始めていた
1998年6月、首位に立った横浜は、その後も球宴を挟んで10連勝するなど好調をキープ。7月以降は一度も首位を明け渡すことなく、10月8日に甲子園球場の阪神戦で38年ぶりにリーグ優勝した。 ス…
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降板を告げられた直後に「勝負せんか!」と一喝…権藤監督が何度も怒った理由
1998年7月、横浜はマシンガン打線が本格的に機能するようになる。 それまで手も足も出なかった中日の落合英二と宣銅烈を攻略すると、続く巨人戦は壮絶な打撃戦を制した。 2試合目は、8-…
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権藤監督から怒られると思ったら「よくストライクを投げ続けた」と褒められた
1998年シーズン、敗戦処理からスタートした私は次第に重要な場面で登板するようになった。 この年は主にリリーフで50試合に登板したものの、防御率は4.67と決して芳しくなかった。当時の他球団…
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横浜移籍1年目、権藤監督は独り言のようにつぶやいた「近鉄時代を思い出せ…」
権藤さんは監督でありながら、投手交代のたびに自らマウンドに足を運んだ。 当時はいまのように試合時間の長さにナーバスではなかった。権藤さんは次に投げる投手の投球練習をマウンドの横で見守り、練習…
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右脇腹を痛みを耐え抜き…3試合の雨天中止と敗戦処理の立場が奏功した
横浜移籍1年目の開幕直後、右脇腹を痛めたときはつらかった。 最初にブルペンで肩をつくるときは、あまりの痛さで涙が出そうになったくらい。1カ月近くの間、痛みに耐えながら投げていた。 そ…
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横浜1年目の開幕直後に古傷の右脇腹を痛めるも…投げ続けるしかないと思った
横浜移籍1年目の1998年、4月14日から広島市民球場で行われた3連戦の最中だった。 ブルペンに「次の回からいくぞ」という電話がかかってきて、準備をしていたときのことだ。投げた瞬間、右脇腹に…
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大魔神・佐々木主浩の驚愕発言「自分は先発投手の家族も養っている気持ちで投げている」
宜野湾キャンプのブルペンで、大魔神・佐々木主浩の投球練習を真後ろから見たときのことだ。 なにより、コントロールがいい。ストレートを両サイドにきっちりと制球していたが、それ以上に驚いたのがフォ…
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横浜移籍1年目の沖縄キャンプの夜に「ハマの大魔神」が声を掛けてくれた
横浜に移籍して1年目の沖縄・宜野湾キャンプ。 最初の休日前夜、那覇の中心地の松山で投手会が行われた。ほとんどの球団でやることで、ルーキーや移籍選手の歓迎会を兼ねている。 会場は大ぶり…
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横浜移籍後の98年、キャンプ初のブルペンで最初にボールを受けてくれたのは権藤監督だった
「最初は敗戦処理からだからな」 巨人から横浜にトレードで移籍して迎えた1998年の沖縄・宜野湾キャンプ序盤。監督の権藤博さんは私にこう言った。 横浜は前年2位。監督が大矢明彦さんから権…
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あり得ないことが立て続けに起こって横浜へのトレードが決まった
巨人に移籍して3年目の1997年オフ。私は契約更改の席上、山室代表補佐に、とにかく一軍のマウンドに立ちたい、巨人でチャンスがないのならトレードで移籍しても構いませんと訴えた。 しかし、トレー…
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ファーム暮らし続く巨人3年目を支えてくれた 元近鉄ブルペンコーチの助言
「あのな、阿波野、おまえが投げている姿を見ているのは近鉄の人間だけやない。相手球団も、それ以外の球団の編成の人たちも調査のために見に来てるんや。だれが見ているか分からないんやから、野球に対してはしっか…