横浜移籍後の98年、キャンプ初のブルペンで最初にボールを受けてくれたのは権藤監督だった
「最初は敗戦処理からだからな」
巨人から横浜にトレードで移籍して迎えた1998年の沖縄・宜野湾キャンプ序盤。監督の権藤博さんは私にこう言った。
横浜は前年2位。監督が大矢明彦さんから権藤さんに代わって、今年こそ優勝するというムードだった。権藤さんは私が近鉄時代にリーグ優勝したときの投手コーチ。いわば恩師だ。トレードも権藤さんと巨人の山室代表補佐との関係があって実現したと思う。
しかし、その前年の私は公式戦で打者ひとりを歩かせただけ。巨人で活躍したことが認められて移籍してきたわけではないだけに、本気で優勝を目指しているチームの中で優遇するわけにはいかないという思いが権藤さんにはあったはず。だからこそ敗戦処理から這い上がってこいと、ある程度、私に覚悟を決めさせる意図だと受け止めた。
横浜1年目は34歳になるシーズン。投手最年長だった。キャンプ初日からブルペンに入って投げ込むという立場ではない。第1クールは確か、遠投をしたと記憶している。そして最初にブルペンに入り、捕手を立たせたままの立ち投げをしようと思ったときのことだ。ブルペンにいた権藤さんは、私の球を受けようとしていたブルペン捕手からキャッチャーミットを借りると、「さあ、こい!」と構えたのだ。