降板を告げられた直後に「勝負せんか!」と一喝…権藤監督が何度も怒った理由
1998年7月、横浜はマシンガン打線が本格的に機能するようになる。
それまで手も足も出なかった中日の落合英二と宣銅烈を攻略すると、続く巨人戦は壮絶な打撃戦を制した。
2試合目は、8-7で勝った1試合目以上の打ち合いに。私は9-9の八回表に登板、高橋由伸に3ランを浴びて9-12とされるも、その裏に同点に追い付いて九回にサヨナラ勝ち。この試合は横浜にとって大きなターニングポイントになったように思う。
敗戦処理からのスタートだった私は、この時期、重要な場面で投げるようになっていた。
この年は50試合、計54回に登板。チームにスイッチが入って以降は投げるケースが増え、8月には3連戦3連投も経験した。疲労がなかったといえばウソになる。
そして横浜スタジアムで行われた広島戦。私はリリーフ登板して前田智徳にセンターオーバーを打たれた。そしてベンチから出てきた権藤監督に降板を告げられた直後だった。
これだけ疲れているのだから、打たれても仕方ないでしょうというのが表情や態度に出ていたのだろう。マウンドに来た権藤監督から、