あと1年できると手応えも 36歳で受けた「戦力外通告」が二転三転した裏側
2000年のシーズン後半、秋口に一軍に上がると調子がいい。
9月1日にリリーフで2回と3分の1を無失点に抑えてこの年、初勝利。10日の広島戦もリリーフで2勝目を挙げた。若手を教えることによって、自分の投球フォームをもう一度、見つめ直したのが原因だろう。
当時36歳。あと1年はできるんじゃないかとの手応えをつかんだ直後だった。最終戦を翌日に控えた135試合目の10月9日、横浜スタジアムで行われたヤクルト戦の試合後だった。
私は編成の人に呼ばれた。選手ロッカーの向かい側にある応接間くらいのスペース、コーチが選手を呼んで話をするような場所で、来季のチーム構想から外れたと通告された。
横浜は権藤博監督1年目の1998年にリーグ優勝。しかし、翌99年は首位から10ゲーム離された3位。この年も首位巨人から9ゲーム差の3位だった。シーズン中から権藤監督はこの年限りというウワサが流れ、新監督の名前も取りざたされていた。
フロントが水面下で新体制に向けて動いていたとしても不思議ではない。とはいえ、最終戦終了後ならともかく、私はまだ1試合残っている段階で「構想外」と通告されたのだ。あるいは最後の試合には両親や恩人などを呼びたいだろうし、本人には前もって通告してあげようという配慮だったのかもしれないが……。