8年ぶりの新作映画「無頼」フィルムは情感の色を表現する
ここ半年間、映画館で大人が見られる映画がほんとになかった。今も、興行界はアニメに席巻されて、他には犯人捜しのドラマぐらいか。これは多くのアメリカ映画勢が本国のコロナ規制で公開中止されたままで日本公開のメドも立たないからだろうか。11月末まで待たせていた「007」もまた更に来年に延びている。そら、2億5000万ドルかけた大作だし、今、無理に封切って感染爆発でも起こしたら元も子もないし、ド赤字をこくだけだ。春まで待つしかないだろう。
おかげで我らの新作「無頼」は肩身が少し広くなって、来月の12日から映画のコンビニ(シネコン)とは無縁の単館ながら、東京、横浜を皮切りに全国順次公開となった。ここは一つ、お客さんに「007」はしばし忘れてもらって、こっちに足を運んでほしい。ボンドみたいに大英帝国お墨付きの殺し屋みたいに跳んだりはねたりはできない、地べたを這いずり回るのが精いっぱいだったケチな無法者たちの物語だけど、ご高覧、お願いしときます。
というわけで、自作の話をもう少し許してほしい。ちょうど、8年前の公開作「黄金を抱いて翔べ」では当時の“デジタル画像の潮流に思いっ切り逆らってやれ”と、ほとんどの組が手を付けなかった35ミリのフィルムで撮った。1975年のピンク映画デビュー以来のフィルム仕事もこれが最後になるかと腹をくくって撮ったのだが、劇中、金塊強盗の主人公が過去を回想するイメージ部分だけは35ミリの数倍、キメの粗い16ミリで撮ろうと思い、何度もテスト撮影をして、人間の幼い頃の記憶らしい程よい粗さの画像を求めたのだった。でも、当時はフィルムの品質も現像技術もとても改良されていて、どっちが35か16の画像か見分けられないほど差がなく、苦心惨憺の揚げ句、粗く仕上げたのだった。