市川崑総監督が示した記録映画「東京オリンピック」は今こそ見るべき
五輪真っただ中だからこそ、記録映画「東京オリンピック」(1965年公開)を是非とも見ていただきたい。今の五輪を考える上から、本作にはとても大きなヒントがあると思えるからだ。
この作品は周知のとおり、64年に開催された第18回東京五輪の様子を描く記録映画である。数々の傑作、名作で知られる巨匠・市川崑が総監督を務めた<日本映画の金字塔>といっていい。記録より、競技中の選手たちの美しさをとことん追求したこともあり、「記録か芸術か」論争を巻き起こしたことでも有名だ。
筆者は、今回の五輪の開会式のあえて翌日に、数十年ぶりにDVDで見た。日本で最初に開催された五輪とは何だったのか。それは五輪本来の意義・目的とどう関わりがあるのか。確認したくて仕方なかったのだ。
見ている最中、何度も涙が溢れた。興奮の度合いが尋常ではない。それほど凄い作品だった。いろいろな切り口があり、作品の世界の広がりは全く途方もないが、どうしても伝えたいことが一つある。本作がとくに力を入れて描いたと見られる<五輪と観客の関係>である。
古関裕而作曲による希代の名曲「オリンピック・マーチ」が流れる中、各国選手団が行進する開会式の素晴らしさは筆舌に尽くし難い。ただ、その開会式を離れても心が揺さぶられる場面が満載だ。とりわけ、会場外にいる若い2人の白人男女をいきなりとらえた場面にはちょっとした衝撃がある。2人は何気ないしぐさで寄り添いながら会話をしている。開会式の興奮とは無縁でありながら2人だけの世界に没入している感じが濃厚で、まるでラブストーリーの一場面を切り取ったかのように見えた。
本当に開会式のさなかの映像かどうかはともかく、我関せずといった趣で自分たちの世界に没入するこの映像は記録的な意味をはるかに超えて、映画そのものの魅力にあふれかえっているのだ。
■日本人が見てみたいと願う昭和天皇の姿
メインの開会式も突然の映像にハッとさせられる。それはネパール選手団が写されたあとだ。大部分の観客が座っている中、立ち姿の昭和天皇がさりげなくうなずく。カメラはよくこの瞬間をとらえたと思う。昭和天皇の朴訥な人柄が滲み出るような映像でいいようのない熱い感情がわき上がってくる。
日本人が見てみたいと願う昭和天皇の姿が鮮やかに写し出された、といったらいいだろうか。開会式が終わると一気に陸上競技に入る。ここでも何度も心が躍る場面の連続だ。長嶋茂雄と王貞治がいきなりツーショットで登場するところは問答無用に感動する。画面右の長嶋、左の王ともに揃えたような刈り上げの頭髪でちょっと身を乗り出すしぐさが清々しい。2人は今回の五輪の開会式でも登場した。57年の時を経て、客席からフィールドへ降り立った長嶋さんと王さん。演出側がどこまで意識的であったかはわからないが、2人のたどった歳月が筆者には日本が歩んできた道筋と重なるように見えて胸が震えたのである。
白眉はアベベ独走を追ったシーン
ある長距離走でも印象深い映像が流れた。ニュージーランドの選手が勝利を得ると、客席からフィールドに乱入した同国の人がラグビーでお馴染みの同国の先住民の踊りを披露し、その後、客席に戻される。微笑ましいと同時に、ハプニング的な乱入に嫌みなところが全くない。これが五輪なのだと納得させられる。
別の競技では、どこの国なのか、ブルーのスカーフをした少女たちの中の一人が拍手をする。画面左側にいる一番幼い少女は最初は静かな素振りを見せていたが、次第に拍手を始め、途中から両手を口元に持っていく。その自然なしぐさの中に、興奮のほのかな香りが漂っており、本作の名場面の一つになっている。
エチオピアのアベベ選手が優勝したマラソンも触れないわけにはいかない。トップを独走するアベベ選手をカメラが側面から撮った場面は、本作の白眉ともいえよう。走る彼の姿とともに沿道にいる多くの観衆が流れるように写し出される。
10月なので、学生服の男子や制服を着た女子が目立つ。カメラはアベベ選手に焦点を合わせており、少年少女たちの表情はよく見えない。それでも、興奮、歓喜の度合いは存分に伝わってくる。ここまで選手と観衆=観客が一体化している場面は、本作でも他にはない(通常の状態だから、この撮影が抜群の効果を見せた)。
“無観客”のTOKYO2020はどう描く?
今回のオリンピック・パラリンピックの記録映画は、海外映画祭で評価の高い河瀬直美監督が手掛ける。市川崑総監督の「東京オリンピック」が切っても切れないかのように描いた五輪と観客との関係を、果たしてどのように描くであろうか。
コロナ禍のオリパラを描くのであれば、無観客状態こそ、その象徴といえるのではないか(編注:宮城県、静岡県、茨城県<学校連携観戦限定>は有観客)。そこを起点にすれば、コロナ禍の惨状の中、一般観客の枠を超えて、物言わぬ人、否物言えぬ人たちの不安や焦燥、さらに怨嗟までさまざまな声が重なり合って共鳴するに違いない。映画の力は果てしない。そう思わせてほしい。