高田文夫は「授業へ出る足を止めていつも沢村先輩のキックを見ていた」と述懐
映画会社・新東宝の倒産のあおりを受けて大映に移籍した「城哲也」こと白羽秀樹だが、ここでも出演の記録は見当たらない。わかっているのは、大映の幹部の勧めに従って日本大学芸術学部映画学科に進学したことだ。
進学に至った経緯の一端を知るのは、白羽と小中学校の同級生で、同じ日芸の映画学科に進学した人物である。
大映の幹部は、白羽に「このままでは一生芽が出ない。移籍を機に、舞台、演出、脚本と演劇全般を勉強してみてはどうか」と言ったという。回想が事実であれば、この時点で演劇の基礎がほとんど身に付いていなかったことになる。「テスト1回、ハイ本番」なるスローガンを掲げて経費削減を急務とした大蔵貢社長時代の新東宝には“一から役者を育てる”という発想自体がなかったのかもしれない。一連の事情はともかく、この進学が、白羽秀樹が「城哲也」から「沢村忠」に変身する転機となったのだ。
日本大学。1889年創立。18の学部と19の学科を有し、学生数は7万677人。事業活動収入は1882億円(いずれも2015年度=東洋経済オンライン調べ)。白羽秀樹の進学した芸術学部は練馬区江古田にあった。俗に言う“江古田キャンパス”である。学生たちが「日大」ではなく「日芸」と名乗るのは今も変わらぬ伝統だろう。