飯野矢住代誕生秘話<13>「姫」を辞めたはずが身重の体で高田馬場のスナックに
「わたしは恋をしたら片思いは絶対にいや。どんなにむずかしくても、その人を手に入れようと思うし、またそうするように努める。(略)だから、相手に恋人がいればその人と張り合うことになる。わたしが勝てば、その女のコは悲しむことになる。けど、恋に悲しみはつきものよ。悲しむ人がでるのは当然だわ」(「平凡パンチ」1969年4月7日号)
モデル、女優、「姫」のホステスとして活躍しながら、同棲相手のバンドマン「ジョニー」の子供を身ごもった飯野矢住代は、妊娠8カ月を迎え産休に入った。所属事務所のジャニーズ事務所も辞めていた。言うまでもなく、矢住代は無収入となった。
ヒモ状態だったのが、突如として一家の大黒柱となったジョニーは、山口洋子の紹介で、赤坂のサパークラブで働き始めた。バンドも脱退して音楽から足を洗った。ジョニーが勤務するクラブの月給5万円(現在の価値で15万円ほど)が収入のすべて。そんな2人を見て誰もが「落ち着くところに落ち着いた」と見たかもしれない。
しかし、そうはならなかった。「週刊ポスト」(1969年12月26日号)にこんな記事が載った。タイトルは「ミス日本 飯野矢住代が流れついた先」である。記事の冒頭で広告代理店に勤務する42歳の男性のコメントを紹介している。