五木ひろしの光と影<4>都はるみの前座では「引っ込め!」とヤジられ…
1965年8月13日、日本コロムビアの専属作曲家である上原げんとが、軽井沢に向かう車の中で心臓発作を起こして急死する。50歳の若さだった。上原の門下生でデビュー2カ月の新人歌手、松山まさるの運命もこれを機に急転してしまう。
このとき2枚目のシングル「恋の船頭さん」(作詞・丘灯至夫/作曲・上原げんと)をリリースしたばかりだったが、後ろ盾を失った影響は大きかった。これといったプロモーションもなく、メディアにも取り上げられず、当然売れなかった。早い話が見放されたのだ。いかに師の存在が大きかったかということだろう。
その後も、「母と子の道」(作詞・白鳥朝詠/作曲・市川昭介)をリリースし、すでにトップ歌手となっていた都はるみの13枚目のシングル「まんまる音頭」のB面として「お月見おどり」(作詞・丘灯至夫/作曲・船村徹)を5人の歌手とレコーディングするも、まったく話題にも上らず、芸能誌にその姿が現れることも一切なくなった。
あるとき都はるみのコンサートの前座を務めたら「引っ込め」「早くはるみを出せ」と散々ヤジられた。噛ませ犬にもなれなかった。