ベンガルの恩人は故・横澤彪氏 「降板」声にも「もう少しと…」
自由劇場を経て、76年に柄本明、綾田俊樹らと劇団「東京乾電池」を結成したベンガルさん(63)。演劇界では若手実力派として一目置かれたが、長い間アルバイトで食いつなぐ生活が続いた。潮目が変わったのは80年10月のこと。フジテレビ系の昼のバラエティー「笑ってる場合ですよ!」への出演がきっかけだった。
「やっと食える」。正直な話、これが、「笑ってる場合ですよ!」のレギュラーが決まった時の感想でした。
この番組は今年3月末で足かけ33年の歴史に幕を引いた「森田一義アワー 笑っていいとも!」の前、同じ枠で放送していた公開生番組。プロデューサーが横澤彪さん(故人)だったんです。
当時、ボクは29歳。日大商学部に通う学生時代から自由劇場のメンバーで、その後、「東京乾電池」を旗揚げしてからも稽古の合間に、展示会やイベントのブースの施工・解体を行うアルバイトで生活費を稼いでいました。早い話が貧乏な若手役者だったんです。「笑ってる場合ですよ!」は最初の司会がB&B(島田洋七・洋八)でレギュラーはツービート(ビートたけし・きよし)、紳助・竜介(島田紳助・松本竜介)ら。当時の漫才ブームを盛り上げていた人気タレントが勢揃い。芝居がベースだったボクらとはかなり毛色が違っていました。