毬谷友子さん 強靭に反対も…宝塚への道を許した父の一言
テレビ、映画、舞台で活躍する女優・毬谷友子さん(59)。最近はツイッターで歯に衣着せぬ政治批判をするなど、硬派な一面で注目されることも多い。中学3年のときに宝塚を志望したが両親に猛反対されて……。
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幼稚園から小・中・高校とお嬢さま学校の四谷雙葉学園育ち。極端な人見知りだったこともあって、両親は「友子はいいお嫁さんになるコース」を歩むと思っていたらしく、中学3年のときに、ぽろりと「宝塚に行きたい」と漏らしたら猛然と反対されました。
劇作家の父(矢代静一)からは「芸術の世界はおまえが考えているほど甘いものじゃない。本人が頑張っただけ成果が上がる社会ではない。向いてないからやめなさい」と一蹴されました。本音は芝居の脚本家として、激しい愛欲シーンやどぎついセリフも要求される女優という仕事を娘にさせたくなかったんだと思います(笑い)。
いよいよ高3で進路を決めるときに、父は3カ月ぐらい悩み続けて体重が4、5キロも減り、最終的に「おい、俺は友子を芸術の神様の嫁にやることに決めたぞ」と許してくれたんです。
■宝塚始まって以来の優等生と言われ…
21倍という難関を突破して憧れの宝塚音楽学校に入ったはいいけど、すぐに自分の甘さを思い知らされました。それまでは何不自由なく暮らしてきたのに、宝塚は先輩後輩の上下関係も厳しく、面と向かって「親の七光のくせに」と言う人もいました。
トイレ掃除の責任者にも指名され、ここで負けちゃいけないと根性を出しました。1年間、朝の6時半から8時半まで女子トイレ4つと男子トイレ1つを毎日、掃除。それこそ床タイルに頬ずりできるくらいピカピカに磨く。雑巾を絞るとき、温室育ちだった自分の心も一緒に絞られるような気がして泣けました。
上の写真は、「文化祭」と呼ばれる宝塚音楽学校の卒業公演が終わり、東京から見に来てくれた父と合流した時に撮ったものです。晴れ晴れとして、自信に満ちた顔をしているのは、これが私の人生で初めての成功体験ともいうべき公演だったからなんです。
学校時代は泣かされることが多かった私ですが、なぜか根拠のない自信があって、「これから自分には役がつくだろう。すると周りのバッシングはもっとひどくなる。それに対抗するには今のうちに誰にも文句を言わせない実力をつけなければ」と(笑い)。
それで音楽学校の夏休みに、音大や二期会の先生から本格的に声楽をみっちり指導してもらったんです。
そのかいがあって、休み明けに講堂で課題曲を歌ったら声量がすごくて、同期の人たちが水を打ったように静まり返るし、指導の先生もビックリした顔。このとき、「矢代さんの声で講堂の窓ガラスが割れた」という伝説が生まれたそうです(笑い)。
そのことがあって、先生方が絶大な信頼を寄せて下さり、文化祭では、舞踏、オペラ、ショーなどで、それぞれの担当の先生方が私をソロ歌手に指名し、ほとんど私の独壇場でした。声楽の総合得点はコロラチュラソプラノのアリアを歌い宝塚始まって以来の99点でした。これって女子フィギュアスケート選手がトリプルアクセルを4、5回決めるようなことなんです。まさに得意満面の絶頂期でしたね(笑い)。
家族の前でも歌ったことがなかったので、父が「あれは本当に友子が歌っているのか」と母に尋ねたそうです。 父とは一卵性親子と言われたくらい芸術に対する姿勢がそっくり。でも、子どもの頃は父が遊んでくれた記憶がほとんどありません。執筆中は家の中がピリピリするし、軽井沢の別荘に行っても、父の仕事の邪魔をしないよう外で遊んでいた記憶しかない。私にとって父は芸術家の化身だったから、その父が相好を崩して喜んでくれたことはうれしかったですね。