<4>「朝次か。すばしっこい巾着っ切りみたいでいいな」
文治と同じ長屋に住む林家正蔵(後の彦六)が、80歳をすぎた文治が弟子を取ったと聞き、「弟子を取る齢か。脈取る齢だ」と言ったというのは有名な逸話である。
「その正蔵師匠が80すぎてから、時蔵、正雀と2人も弟子を取ったんですから笑っちゃうでしょ」
前座名は文治の一字をもらって桂文太。待望の前座修業が始まった。
1972年7月、桂文太(才賀の前座名)は寄席で働き始めた。
「楽屋の前座仕事は自衛隊と比べりゃ楽なもんです。だって、寄席の楽屋というあこがれの場所で、あこがれの師匠方のお世話ができるんですから、つらいわけがない。小さん、志ん朝、談志にお茶出したり、着替えの手伝いするのは楽しかったですね」
当時は団塊の世代がこぞって入門した時期で、前座の数が多く、二つ目に昇進するのに5年かかった。昇進の翌年、師匠の9代目文治が亡くなる。
「享年87でした。師匠が亡くなると、二つ目はどこかの一門に移るのが慣例です。あたしは海上自衛隊出身の先輩、古今亭志ん駒兄さんの縁もあって、志ん朝師匠(写真)の一門に入れていただくことになりました。師匠と一緒に落語協会の幹部連に挨拶回りをした時のことです。師匠の実兄の先代金原亭馬生宅へ伺って、次の幹部宅へ移動するのにあたしが車の運転をしてると、師匠が、『兄貴に、単に預かりなら今の芸名でいいが、弟子にするなら芸名を古今亭に変えなくちゃいけないと言われたんだ』と言う。それで運転しながら芸名を考えた。『師匠。古今亭朝次というのはいかがでしょう。志ん朝の朝に、師匠の本名、美濃部強次の次で朝次です』と言ったら、『朝次か。すばしっこい巾着っ切りみたいでいいな』と許してくれて、その日から古今亭朝次になりました」