立川談志への弟子入り願う俺を凍らせた高信太郎さんの一言
1982年9月13日、その夜、池袋演芸場の高座で立川談志がイの一番に発した10代目金原亭馬生の訃報は満員の客席をざわめき立たせた……。談志の毒舌ぶりはお客さんの誰もが知っていたが、その口調、語りぶりからそれが真実であることを疑う者はひとりとしていなかっただろう。
談志は高座の頭で馬生師匠の訃報を告げた後、いくつかの2人のエピソードを語っていたとおぼろげには覚えているものの……その時の俺の頭の中は真っ暗闇の底なしの井戸に落下していくかのようだったのだ。
実はその日、俺が演芸場に足を運んだ理由は「立川談志に弟子入りする」だった。それがいきなりの馬生師匠の訃報って……、「あー! もうダメだ! 絶対に弟子になんかしてくれるはずがない!!! だって……ホラ、そーそー芸人は縁起をかついだりするだろうから……えっ弟子入り? バカ野郎、馬生が死んだ縁起でもない日に弟子なんかとれるかー!! さあとっとと帰った! 帰った!! オウ、誰か塩まいとけー!! ウワ~ッ、どーしてよりによって馬生師匠も今日逝っちゃうのさ~、せめてあと数日踏ん張れなかったかなあ~……まあ、噺家は座布団の上で座ってばかりで下半身鍛えてなさそうだからなあ……」と亡くなられたばかりの馬生師匠にまで八つ当たりする始末……バチ当たりでホント申し訳ありませんでした。