<83>ネガはプリントするための過程だが、ネガ自体を作品にしてるんだ
ネガロポリス 右眼墓地(2)
ある朝、パッといきなりきたわけだよ、なんの前触れもなく。パサって幕が落ちたみたいに見えないんだよ、右目がね(2013年10月、右眼網膜中心動脈閉塞症により右目の視力を失った)。これからは左眼か、そう思ってやった個展が「左眼ノ恋」(2014年、連載81に掲載)。その後にやったのが「ネガエロポリス 右眼墓地」(2015年、連載82に掲載)。
ペンタックスのレンズをぶっ壊して、青山墓地をタクシーの窓から撮った“クルマド”(車の窓から撮影)が「右眼墓地」。それと、まあ、都市論じゃないけど、『メトロポリス』ってフリッツ・ラング(監督)の映画の記憶とかさ、そういうのにひっかけて、「ネガエロポリス」。青山墓地とネガエロポリス。高層ビルがまた墓標とそっくりだろ。街が、墓場のように感じるんだ。
生理的、感覚的におもしろい
普通、ネガっつうと、プリントするための過程じゃない? プリントしてみんなに配るまでのね。ネガってのはその途中なんだよ。ところが、そのネガ自体を作品にしてるんだ、それをそのまま引きのばして。そうすると見るヤツによっちゃ、「あっ、裏側が写ってる」とかさ、「彼岸が写ってる」とか、そんなふうに感じたりするだろ? 彼岸からこの世を見たのがこれだとか、オレがまたそういうこと言って騙すのがうまいからさ(笑)。でね、自分でもものすごく、生理的、感覚的におもしろいんだよ。カラーネガだと、例えば赤鬼がさ、青鬼になったりするだろ。
で、それを撮るときも、これどんなの上がるかなって、あまり予測もつかないわけ。まあ、ある程度分かってるんだけどね。そういうのが、写真を始めた頃の感覚に近いんだよ。写るのかなとか、どんな色が出るのかなとかさ。幼児っつうか、子供のお遊びの感覚に近い。そういう感覚もあるわけ。やっぱり裏切られる快感だね。
(構成=内田真由美)