「フィンガー5」晃さんに聞いた「天国も地獄も味わったけど、後悔はありません」
──ブームまでの足跡。
「基地活動の反響で70年に『ベイビー・ブラザーズ』でデビューしたんですが、まったく売れませんでした。本来、僕たちはソウルやロックを歌っていたのに、内地に合わせて子供らしく童謡っぽい歌にしたのが敗因です。学校では散々バカにされ、父親も“沖縄に帰ろう”と家財道具をまとめていたところ、デモテープを聴いたある音楽関係者に“君たちは凄い才能がある”と説得され、返還の年の8月『ジャクソン5』にあやかって『フィンガー5』として再デビューしたんです」
──ソウルロック調の「個人授業」「恋のダイヤル6700」「学園天国」が続けてミリオンの大ヒット。列島にフィンガー5旋風が起きた。ブームを支えたのはハイトーンの声で歌うボーカルの晃だった。
「歌のコンセプトである“生意気でませたガキ”は僕そのもの。トンボのサングラスもその象徴。なにか目立つ演出はないかと思っていたら布施明さんのサングラスを見て、カッコいいと思って自分で買いました。大きいのを選んでかけたら大ウケでした。でも人気が出たら、朝から晩まで働きづめです。睡眠時間は毎日3時間くらい。食事もまともに食べられない。意識もうろうとなって何度も倒れて救急車で運ばれた。体力の限界でした。お金はかなり稼いでいたはずですが、すべて父親が管理していました。『六本木にマンションを買うか米国に逃避か』と父親に聞かれ、全員一致で渡米を選択しました。ビバリーヒルズの豪邸を借りて、優雅に暮らしていました。遊ぶだけでなく、ギターを習うなど勉強もしましたが、至福の半年間でした」