「量」が絶対的担保として表現者の「質」の評価となった時代への挽歌
今年の大型連休は、友人を訪ねて旅に出た家族と離れてひとり東京に残った。作曲、番組収録、執筆といった仕事があったからだが、スケジュールは散発的でさほどタイトでもなかった。
40代はこういうときこそ絶好のチャンスとばかり、仕事を極力早めに済ませて馴染みの店や気になる店を飲み歩いたものだ。30代は東京に残ること自体が殆どなく、仕事が済まずとも旅に出た。同行する恋人なり家族なりが寝静まった真夜中にホテルの机に向かう。客室に十分な広さがなければ、バスルームに籠もってPCのキーを叩く。ほとんど徹夜で朝を迎え、起きてきた同行者と一緒に朝食をもりもり食べ、旅を続けた。
さらに20代にまでさかのぼればどうだったか。そうだ、あの頃はひと月ぶんほど先行して執筆や収録を済ませて海外に飛ぶのが常だった。非常時に備えて担当編集者やディレクターにあらかじめ宿泊先を告げることにも、大した抵抗を感じていなかったな。スマホもネットも普及していない時代、原稿を送るファクスをさがして、南欧の田舎町を丸一日駆けずり回ったこともあったっけ。