映画「断食芸人」足立正生監督が語る日本赤軍との日々
「60年安保の時代だから、連日、街頭デモに繰り出した。そんなある日、応援団に呼び出され、同級生で応援団長だった山本晋也に“足立、学内で反安保運動をやってるのか?”と問い詰められた。すかさず“オレがやってるのは門の外だ”と答えたら、山本は“おまえら、情報は正確なものを出せ。この野郎!”って周りの応援団員をボカスカ殴るわけ。100人くらいに取り囲まれていたからね。当時の日大は応援団と運動部が支配する右翼大学だっただろ、返答次第では命の危険もあった。つまり、山本はオレの命の恩人なんだよ」
「帰って来たヨッパライ」「新宿泥棒日記」など大島渚と組んだ一般映画もあるが、ピンク映画を通し、若松孝二監督との二人三脚が長く続いた。
転機になったのは71年、若松監督とカンヌ映画祭の帰りにレバノンに渡り、映画「赤軍-PFLP・世界戦争宣言」を製作・上映。74年には再びパレスチナに向かい、重信房子らの日本赤軍と合流。日本赤軍のスポークスマンとして活動するようになった。
「最初は一兵士だったんだ。ジェット戦闘機やヘリ、戦車などをやり過ごし、後に続く敵兵を急襲する白兵戦を展開してた。塹壕にこもってた時に尿意を催し、塹壕から出て用を足して戻ったら、爆撃で塹壕が跡形もなく消えてたなんて経験も何度かしたね」