池内ひろ美さんの人生を変えた阪神・淡路大震災「5歳の娘を連れ離婚したばかりで…」
池内ひろ美さん(家族問題評論家)
1996年に初めて上梓した「リストラ離婚」が話題になり、翌97年に総合的な夫婦問題のコンサルティングを行う「東京家族ラボ」を設立。現在は一般社団法人ガールパワー代表理事、家族メンター協会代表理事、内閣府後援女性活躍推進委員会理事としても活躍する池内ひろ美さんの人生を大きく変えたのは、95年1月17日未明に起きた阪神・淡路大震災だった……。
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震災当時の私は5歳の一人娘を連れて離婚したばかり。大阪の小さな木造2階建てのアパートに住み、編集プロダクションで旅行雑誌の記者として働いていました。朝、娘を保育園に連れて行った後、仮眠を取って午後は編集部へ行って打ち合わせや取材に出かける。夕方、娘を迎えに行って、食事やお風呂に入れて寝かしつけた後に朝まで執筆という毎日でした。
この頃から雑誌の記事と並行して「リストラ離婚」の原稿も書き進めていて、仮眠しか取れない日が続いていました。
1月17日の午前4時ごろ、この日はなぜか睡魔に襲われ、娘が起きるまで横になりたいなーと思って添い寝をしました。そして、ちょっとウトウトしかけた時に、ドドーンってすごい音がしました。何が起きたのか、まったくわからなかった。
でも、目が覚めたその時、ハッキリとタンスが倒れてくるのが見えました。
それは私の嫁入り道具の北海道民芸家具のタンスです。部屋が狭くて、2さおの和ダンスを上下に重ね置きしていました。関西ではそれまで大きな地震の経験がなかったため、転倒止めもしていませんでした。夜明け前の暗い中、視力が0.03しかない私なのに、上のタンスが倒れてくるのが見えたんです。
「このまま落ちてくるとこの放物線は娘の頭を直撃する」と瞬時にわかりました。
慌てて娘の上に覆いかぶさった瞬間、私の頭の左上にガンとぶつかってバウンドしたタンスは、体とは別の方向に倒れてくれた。もしも添い寝していなかったら……娘に覆いかぶさっていなかったら……タンスが私の頭でバウンドしなかったら……すべてが奇跡的でした。
とにかく娘を守らなきゃと思って、娘を毛布にくるんでダイニングテーブルの下にもぐり、暖房を使うわけにはいかないので、「寒いね」なんて話しているうちに夜が明けてきました。
すると娘が「ママ、顔がスゴイよ」って。確かに左目が開けにくくなっていて。タンスにぶつかった部分がパックリ割れてそこから血が流れていたんです。娘は「ブラック・ジャックみたい」と驚いていました。洗面所に行って鏡を見ると、本当にすごかった。傷口から流れた血が、顔の左部分を覆うような感じで固まって、茶色く変色していたんです。
「親の世話にならない」と大ミエ切って離婚
震災当日も保育園は開園していたので、娘を送ってからようやく病院に行けました。すでに多くの患者さんがいましたが、「血の流れている人を優先的に」とのことですぐに治療を受けることができました。
お医者さんは「大変だ。縫わなきゃいけない。痛かったでしょう?」と心配してくださったけど、アドレナリンが多く分泌されていたのか、麻痺していたからなのか、まったく痛みを感じなかった。7針も縫うケガだったのにね。
その時は大阪で仕事するのは難しいと思い、岡山の実家に帰ろうと思ったんです。ところが、厳格な父は「離婚の時に反対したのに、それでも『親の世話にはなりません』と大ミエを切って別れたのだから、戻ることはまかりならん」と……。
震災前に「リストラ離婚」の原稿は書き上げていて大阪の新聞社で連載が決まっていました。けれど、阪神・淡路大震災の後、3月20日に地下鉄サリン事件が起きたため、それまでの企画はすべて差し替え。私の連載企画も飛びました。
■飛びかけた「リストラ離婚」の連載を東京で
ところが、その原稿は大阪から東京の編集部に送られていて、当時の編集長が気に入ってくださった。「これは1カ月連載じゃもったいないから3カ月にしよう」ということになり、書き直すように言われたんです。
とてもありがたいお話でしたが、連載の作業はあとの2カ月分を補足というのではなく、一から構成を考えてすべて書き直さなければなりません。別れた夫からの養育費はゼロ。財産分与もなかったため、生活は大変でした。とても原稿に専念できる状況じゃなかったので、「今の私にはとても無理です」とお断りしました。
そうしたら「今納めてある分の原稿料は先に払うから、それで3カ月分を書いてください」って言ってくださったの。
今思うと、素人の私に1本1300文字くらいの原稿で、破格の原稿料をいただきました。しかもまとめて20本分も。本当にありがたかった。
震災後の大阪に仕事はない。東京で連載が始まることだけを縁に上京を決心しました。
そして「リストラ離婚」の連載が始まり、その最中に複数社から「本にしませんか」と声がかかり、最終的に双葉社さんから出版されることになりました。
あの震災がなかったら私はあのまま大阪にいたと思います。まさに私にとって人生が変わった瞬間でした。
(取材・文=李京榮)