眞子さんの生き方は皇室を「時代に合ったもの」に変えつつある
しかし、皇室の儀式には明治になってできたものが少なくない。できたてほやほやの新政権を皇室中心にまとめるため、皇室の権威づけにさまざまな儀式が「伝統」かのようにつくられた。「納采の儀」もその一つである。
戦前の大日本帝国憲法と皇室典範が対等であった二元法体系なら問題はなかっただろうが、現在の憲法は、結婚は両性の合意のみによるとしている。納采の儀にこだわることの方がおかしいのではないか。皇室だけが超越して存在できる時代ではない。もし皇室の「伝統」をいうなら、1000年以上も前の太古から続いている儀式だけを継続すればいいのではないか。
皇室を変質させかねないという論もおかしなものだ。皇室もまた時代の中で生き続けているのであり、当然時代に適応していくべきだろう。むしろ、そのように改革していかなかった宮内庁の責任は重いといえる。
眞子さんの結婚が大きな問題になった時でも、身を削って解決しようと試みた形跡はないし、親身になって眞子さんの相談に乗ったとも聞かない。眞子さんの結婚に対する批判があったのに、国民に理解してもらおうと丁寧に説明することもなかった。皇室に降りかかっている問題を、宮内庁長官を含め、自分たちの責任として解決しようとした職員は果たしていたのだろうか。この無責任体制こそ、眞子さんを追い詰めていったとしか思えない。
時代は大きく変化しているのに、皇室だけは何もしなくても生き延びられると思っていることの方が異例であろう。(つづく)