五木ひろしの光と影<26>「ナベプロ帝国」支配者・渡辺晋はなぜ賞レースに消極的だったのか
ジャズグループ「シックスジョーズ」のバンマスにして名うてのベーシストとして、大学生のダンスパーティーや米軍キャンプで演奏していた渡辺晋が、旧来の芸能興行から脱皮し、芸能プロダクションの近代化を目指そうと、妻の美佐と渡辺プロダクションを設立したのは1955年のことである。以降、ハナ肇とクレージーキャッツ、ザ・ピーナッツ、ザ・ドリフターズら人気グループを擁し、中尾ミエ、梓みちよ、沢田研二、布施明、森進一、キャンディーズら数え切れないだけのスターを抱えた。さらには楽曲の原盤権を保有することで音楽ビジネスに乗り出し、番組制作にも乗り出すことで次々とテレビ番組を生み出すなど、「ナベプロ帝国」と畏怖される芸能界の最大勢力となりおおせたのは周知のことである。
ただし、帝国の支配者である渡辺晋は、かねて「賞レース」への参戦には消極的だった。「黎明期からテレビに関わってきた晋さんにとっては、そのテレビが生み出した賞を争うこと自体がバカバカしいことだった」と証言したのは「日本レコード大賞生みの親」ともいうべき元TBSの砂田実である。けだし事実だろう。しかし、理由はそれだけではない。それこそが、野口修にとっての「勝算」だったのである。